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2003年12月の日記
2003年12月30日(火)

 パロマスが帰ってきてるというので夜の7時半頃、高松からわざわざ高速往復2200円も使って家族で観音寺のパロットへ。店で長谷川君と長谷川君の彼女と長谷川君の友だちと一緒に話してたら偶然盛の大将が来て、店の2回で宴会している団体の中には偶然S原がいて、家内は途中で厨房に入って洗い物を始めて、書くこといっぱいあるんだけど、これを書いてるのは31日の昼1時45分。あと15分で東京に向けて出ないかんがな。あ、今ごんが来た。2時に長谷川君が来たら空港に出発。夕方6時くらいには東京麺通団に着くからね。ほな。
2003年12月29日(月)

 夜の11時に上村さん(四国学院大学のカルチュラル・マネジメント学科に4月から一緒に教授になった人で、劇団銀河鉄道の主宰。私とは15年以上の知り合いだ)から電話がかかってきて「今、古馬場で飲んでるんだけど来ない?」って。今日は早朝からパソコンに向かって原稿の構想を練っていたのだがどうにも組み立てがまとまらず(またかい)、夜中ではあるが気分転換にと出かけていったのである。

 行ったら上村さんと産経新聞の和田くんと、RNCラジオの上村さんがやっている番組のディレクターの女の子がいた。店はカクテルが主体のバーらしい。 女性バーテンダーが注文を取りに来た。
上村「田尾さん、飲まないんだったっけ」
団長「はあ。でもこんな店に来たらお茶というわけにもいかんし…」
上村「いいよいいよ、無理しなくても」
団長「じゃ、えーと、何かシングルモルトありますか?」
バー「ありますよ」
団長「スプリングバンクは?」
バー「あります」
団長「えー! じゃ、スプリングバンク。ストレートで、チェイサーつけてください」
上村「何だよ! 飲めるんじゃん!」

 はっはっは。買いかぶってはいけません。私は飲めません。
 というか、仕事柄これまで25年以上いろんな集まりで酒の席には数限りなく呼ばれたけど、酒を「うまい」と思ったことはほとんどありません。特にワインとビールは全然ダメ。ワインは何というか、「甘い」と「渋い」と「苦い」と「果物っぽい」と「水っぽい」が全部中途半端に混ざっていて「何じゃ、お前は!」みたいなのを、舌と脳がどうも受けつけない。ビールは苦い。紹興酒はごっつ臭い。「お子様の味覚を持つ男」ならではの、わかりやすい理由やろ? ついでにちょっと飲んだらすぐに体が真っ赤になって、飲むほどに気持ち悪くなる。ま、要するにたぶん典型的な飲めない体質ですな。

 そんな中で3年くらい前にご隠居都村さんに教えてもらったのが、この「スプリングバンク」というシングルモルトウイスキーの69年ボトラーズバージョンとやら。で、都村さん行きつけの高松の「ハウスオブジョンバーリーコーン」に行った時、マスターの川田さんに「都村さんの、ちょっとちょうだい…」と言ったら、内緒でグラスに3ミリくらい、ストレートで出してくれて、「だまされるはずがない」と思って口に近づけたら、今までに体験したことのないめちゃめちゃええ香りがしたのである。でも3ミリで真っ赤になったけど(笑)。

 以来、どうしても何か飲むという場面では「スプリングバンク」を一応頼んでみるのである。ただし、先の69年ボトラーズバージョンとやらは、都村さん曰く「日本にあるこのバージョンは全部で4本で、全部私が飲んでしまったからもうない」んだそうであるが、正確には全部ではない。そのうちグラスに3ミリ分は私が飲んだ(笑)。

 結局、上村さんと「我々民間から大学に入っていった者」同士の「大学で何をするか。何を目指すか」みたいな話をしていたら、午前3時になりましたがな。途中、和田くんから「ナイスタウン(私がやっていたTJ Kagawaのライバルタウン情報誌)がうどんの本を出しましたけど、どう思います?」という質問が出たので、この讃岐うどんブームの中で讃岐うどんの本場香川にある地域のメディアが次に何を扱うべきか、についてレクチャーし、私の「アイデア開発論」の手法で解きながら斬新なプロジェクトを2つ提案したら、上村さんも和田くんも「それいい! 絶対次はそれだよ!」と激しく同意(笑)。メディアの方々、目の前にある斬新な素材が全然見えてませんよ。
2003年12月28日(日)

 早朝からパソコンに向かって原稿の構想を練っていたのだがどうにも組み立てがまとまらず、気分転換にビークオーター飲んで峰山へ歩いて上がることを決意。横でぐうたらしている家内を誘ったら「もうちょっとぐうたらしとる」と言うので、年末年始用の買い出しに行っているというごんを連行して登山に出発した。

 途中、急坂で休んでいるおばあちゃんに遭遇し、我々も休憩がてら、しばらくおばあちゃんと話し込んだ、というかおばあちゃんの話を一方的に聞いてたんだけど。昭和21年頃からの峰山の話(電気も水道も引かれてなかった頃から峰山の上に住んでいるらしい)をいっぱい話してくれて、それから山頂まで行って、降りてきたら昼過ぎになったのでごんのマンションに行って、「さっき買い出したもんがあるやろが」言うて焼きそば作らせて、ごんが作っている間に「わなげ」とかいうお菓子を一袋の半分ぐらい食って、焼きそば食って「スペースカウボーイ」のDVDを借りて帰った、と。

 で、帰りにコンビニに寄ったら、表で20代前半と思われる若い兄ちゃんが2人、しゃがんで何かしゃべってるんだ。小耳に挟んだ言葉が「年金や払たってしゃーないやん」。おお、お前らこの寒いのにコンビニの前にしゃがんで年金問題を語りよんか(笑)。国民年金を払ってない人が何万人だっけ。20代とかの若い連中を中心に300万人くらい? そいつらがずーっと払わずに65歳になったら、一人年間80万円くらいもらえるところを彼らは受給資格がないから、国もそいつらに払わなくていいと。ということは、あと40年ぐらいしのいだら、それからは年間2兆円以上も国の負担が減るということか? まあ40年もしのげるかどうかわからんけど、とりあえず不払い中のみんなはがんばって受給資格を失うまで不払いを続けてもろたら、40年後の子孫が喜びそうやし。俺らはとりあえず我慢するから…というか、死んでると思うけど。

 夕方、S原夫妻が子供を連れて、年末のあいさつに来宅。モンシェール(ケーキ屋さん)のマスターが作ってくれたケーキを持ってきた。マスター、毎年変なケーキを作ってくれてS原に託してうちに届けてくれる。今年は、大きな箱を開けたら直径28センチのケーキの上に直径16センチものチョコで作ったどんぶりが載ってて、その中に何かプリンみたいな素材で作ったうどんとダシと、お菓子みたいな素材で作ったちくわ天とゲソ天が入ってて、そのどんぶりのダシに私が浸かっているという…TVチャンピオンのお菓子職人選手権で作るみたいな巨大ケーキだ。お菓子で作った箸もついてるぞ。マスター、クリスマスの忙しい時になんしょんな!(笑)いや、家内が買うたばっかりのデジカメでバシバシ写真撮ってました…が、メカに弱いけんここにアップする仕方がわからん。
2003年12月27日(土)

 今日はKSBの後藤さん(プロデューサー)の還暦祝いのゴルフコンペに誘われて、岡山の鬼ノ城G.C.へ行きました。5組19人の参加。インスタートで10番パー、11番パーという奇跡的な滑り出しの次の12番ロングで「13」を叩きました。そこからグッと踏ん張って、イン最後の18番ミドルでグリーンに向かって2打目を打ったらキャディーさんが「これは左過ぎ!」と言うので「何が左や。グリーンに一直線やんか」と思ったら、隣の9番のグリーンを狙っていて、しかもそこには9番と18番を分けるクリークがあってそいつを直撃。「8」を叩きました。ところが12番も18番もダブルペリアの隠しホールになってたらしく、上がってみたら53・50の103なのに(安心したやろ?)ハンデが30もついていてびっくりの準優勝。ニアピンも1個獲得、後藤さんの特別賞(5番、10番の大叩き賞)も当たり、賞品が全部でビール24缶、ネスカフェのコーヒー詰め合わせ、マンシングの携帯チェア、ボール1ダース、キャップ1個。しかも1点勝負したウマも的中。ドロボウみたいな一日じゃ。
2003年12月26日(金)

 久しぶりにアップタウンへ行ったら、牛乳屋さんとくまさんとなおちゃんがいました。テーブルにたかって無言でカニ食ってました。
2003年12月25日(木)

 数人しかいない私の知り合いの外国人の一人であるサッド・デモルダー(日本で最も讃岐弁のうまいニューヨーク出身ベルギー系アメリカ人)が「原稿をいっぱい書いたけど本にできるかどうか見てくれ」と言うので、メールで送ってもらって読んで、今日、その感想を伝えるために会うことになった。サッドはニューヨーク出身と言っても、本人曰くニューヨークのはずれの人口1300人の田舎町に住んでるらしく、講演では「僕はニューヨークと言っても1300人の町で……あ、今は僕がここにいるから1299人だけど」というツカミをやっているらしい(失笑)。サッドの原稿は、自分が香川に来てから(たぶん10年くらいにはなると思う)体験したエピソード集みたいなもので、さっきのツカミを見てもわかるようにかなりベタな小ネタ集である。いずれにしろ、もし出版とか連載とかいう話になると今の私は無力なので、媒体を持つメンバーにも同席してもらおうと、インフォベースに集合して佐伯、和田、安西に一緒に話を聞いてもらうことにした。そしたら、サッドと一緒に男の人と女の人が一人ずつ来てる。男の人はサッドがこっちで勤務している三野町国際交流協会の綾さん。で、綾さんが紹介してくれた もう一人の女性が…
綾「彼女はうどん屋さんなんですよ」
団長「え? どこですか?」
女性「高瀬の、渡辺です」
団長「えー! 渡辺の、娘さん?!」
 いやいや、何とも、なんかうどんがいろんな縁を持ってきてくれますなあ。本日は昼から大学で残務整理。論文書かないかんのにテーマが全然決まってない。
2003年12月24日(水)

 そういうわけで機会あって22日の朝高松を出て、2泊3日で南紀勝浦と白浜に行って来たわけです。それも旅行代理店で段取りをしてもらって、現地ではこれまた旅行代理店でセッティングしてもらった観光バスで那智の滝とか神社とかの名所巡りに乗っかって。
 仮にも元情報誌の編集長から社長まで務めた私がなぜわざわざこんなお膳立て旅行に乗っかったかというと、来年度から大学の担当講義が9つも増えるのだが、そのうちの3つが「観光マネジメント概論」「観光政策論」「観光文化論」という、どう分類したらいいかわからないタイトルの講義で、このかなり困難な講義計画作成のための情報収集が大きな目的の一つだったのである。で、地域の観光政策と一緒にツアーマネジメントの現場も一緒に体験しようと思って、旅行代理店のパッケージを組み込んだ、と。しかしパッケージツアーとはいえ、きちんと問題意識を持って臨んだらいろんなものがわかりますねえ。机上で理論を組み立てたのでは実践で役に立たず、かといって現場の場数をいくら踏んでも問題意識を持っていなかったらこれまた実践で役に立たないということも実感した。来年4月の講義開始までに、現場体験と実践につながる理論構築を必死でまとめます。
 ちなみに四国学院大学カルチュラル・マネジメント学科教授としての私の担当講義は、以下のようなラインナップである。

(1年生向け)
・アイデア開発論
・讃岐文化論
・カルチュラル・マネジメント概論
・プラクティカム入門
・ワークショップ
・フェスタ・プラクティカム

(2年生向け)
・観光マネジメント概論
・観光政策論
・観光文化論
・マーケッティング論
・人材活用論
・放送メディア論
・フェスタ・プラクティカム
・フィールド・プラクティカム
・パウワウ

(3年生向け)
・観光開発論
・四国・瀬戸内観光論
・さぬきパスタ論
・フェスタ・プラクティカム。
・フィールド・プラクティカム
・パウワウ

(4年生向け)
・フェスタ・プラクティカム「
・パウワウ。
・卒業プロジェクト

 カルチュラル・マネジメント学科は今年の4月に新設されたので、今は1年生しかいないから1年生向けの講義だけの担当であるが、来年4月から1年生と2年生が揃うので2年生向けの担当講義が一挙に9つ増える。再来年はその上に3年生向けの担当講義が6つ、その次の年は4年生向け講義が3つ増え、合計24の講義を持つという形になるわけである。この中には半期の講義や何人かの先生と分担で担当するものもあるから、毎週24科目の講義を担当するわけではないが(物理的に入らんがな)、来年以降、かなりびっしり状態になる。中でも単独で担当する講義については1科目につき90分×15回分くらいの講義計画を作ることになる。気が遠くなるやろ? しかも私は全科目、参考文献なしのオリジナル講義内容を作成するつもりだし。
 ちなみに私のことを「うどんで先生になった」とバカにしているお会いしたこともない方々がおられますが、憶測でウソを書いちゃいけません。うどんで教授を引き受けるほどバカじゃありませんから(笑)。
 で、とりあえず勝浦、白浜で収穫した観光政策と観光マネジメントに関する考察を今、大急ぎでとりまとめています。頭の中を、現地のお土産物店やいろんな店でしつこいくらい流れていた「紀州のウメボシの歌」がぐるぐる回っています(笑)。あ、那智の滝の近くの茶店みたいなところで「お滝うどん」なるものを食べてきました。麺を箸で持ち上げると滝のようにまっすぐに伸びて、プチプチ切れて滝のようにダシの中に落ちました。なるほど、「お滝うどん」か。
2003年12月21日(日)

 日清冷凍食品様から嫌がる我々にどうしてもというお誘いがあったため、仕方なくイヤイヤゴルフにお供させていただいたが(もうええっちゅうに)、日頃の精進のおかげで、ごんの「1オン6パット」という目の覚めるようなプレーを見せてもらうという幸運に出くわした。帰りにごんと2人で詫間の私の実家に立ち寄って、焼きそばとむき甘栗を食う。母ちゃんからの近況報告。
母「小学校で“あいさつ運動”やらいうのをしよんやけどな、あれが迷惑なんや」
ごん「何でですか?」
母「ほんだってな、道で小学校の子に会うたら大きな声で“こんにちわ!”言われるやろ? ほんだらこっちもいちいち“はいこんにちわ”言わないかんがな」
私「言うたらええやん」
母「あんた、一人やったらええけどな、集団下校にや会うたら、たまらんので。みんなが一人ずつ“こんにちわ! こんにちわ!”言うて、それに全部“はいこんにちわ”言わないかんやろ? それがなんぼ言うたって次々に言うてきて終わらんのやきん。」
私「あっはっは! そらたまらんわ(笑)」
母「ほんでそいな子が中学校に上がったら、道で会うても知らん顔しとんやきんな。あいさつや学校で強制してくれんでも、道で会うたらニコッとしてくれるだけでええがな」
 いやいや、何事も現場の声を聞いてみないとわからんことがよっけある。それからまあ母ちゃん、よっけしゃべるしゃべる。帰りにリンゴとミカンと酒のアテをもらったごんが私に一言。
ごん「あんた、血筋引いてますわ」
 さてと、明日から和歌山じゃ。
 
2003年12月20日(土)

 第4回讃岐うどん巡礼88カ所達成者パーティーは、450人もの達成者を数えて、関係者やゲストを含めてたぶん500人近い出席者で無事完了しました。健全なる出席者の皆さん、私は大変感謝しています。
 「讃岐うどん巡礼88カ所」の企画は4年前、私と当時キリンビール四国地区本部のマーケティング部長だった狩野さんと当時セーラー広告役員で麺通団知将のA藤の3人の雑談の中で出てきたお遊び企画だったのですが、第3回の昨年は達成者パーティーに知事やJR四国の梅原社長をはじめ各界の方々まで参加いただいてニュースにも取り上げられ、今年もマスコミの取材がたくさん来て、何やら大きなイベントみたいになってしまいました。でも、相変わらずの私とごんの行き当たりの進行を見ていただければ、参加者の皆さんには依然としてお遊びのテイストであることはおわかりいただけたことと思います。
 88カ所の選定は、第1回が「讃岐うどんの店のいろんな在り方を体験していただきたい」というコンセプト、第2回が「讃岐うどんのメニューのいろんな在り方を体験してもらおう」、第3回が「みんなの人気投票をベースに多くの人がどんな店をおもしろがっているかを体験してもらおう」、そして第4回は「全店この企画に初登場の店を集めて讃岐うどんの奥深さと新しさを体験してもらおう」という、一応の狙いはあったわけである。加えてもう一つ、私のタウン情報編集長時代からの一つの目的であった「いろんなおもしろい人を発掘して地域で遊ぶおもしろさ増やしたい」という狙いもあった。タウン情報かがわ時代の人気企画「笑いの文化人講座」やラジオ番組「そんなわけ、ねーだろ!」も、まさにその目的をいつも頭に置いて展開してきた企画であり、「ゲリラうどん通ごっこ」に端を発するいろんなうどん企画もそうである。おかげでうどん屋からは秀のおばちゃんやがもうの息子や大浜の“うどん叶姉妹”やスーツを着た讃岐家の大将(笑)や、うどんファンからは麺通団員をはじめ、麺聖、うどん王グループ、さぬきうどんMLグループ、高高うどん部、米谷さんに南さん、ブレンダ・トーマスさん……数え切れないほどの素晴らしいキャラクターが次々に出現して讃岐うどんの遊びの世界を広げてくれた。みんな一人一人、讃岐うどんの世界をにぎやかにしてくれた功労者たちである。
 でも一方では、残念だけど非生産的な批判をして足を引っぱる人たちも出てくる。表面的な事象や、伝聞や、片方だけの話を見聞きして短絡的に批判をする人たちがずいぶん増えてきたなあ、という感想である。第3回までは私が巡礼企画の指揮を執っていたが、万全を期して確認を取って進めてきたつもりであったのに、企画が始まると言を翻す店も出てきたりして、その店からの話を聞いただけで企画批判をする人たちも現れた。今回の第4回は私は退職をしたために全体指揮は執っていないが、主催側やスポンサーは、不足はあったかもしれないが私の意をくんで誠実に取り組んできてくれたと思う。そういうリスクを負って主催する人たちや、リスクを負ってスポンサードする人たちや、予想外の事態にも現場でできる限り対応してくれたお店の人たちに、繰り返すが不足があっても大きな気持ちで大人の対応をするうどんファンでありたいと、私は思っているわけです。
 会場で何人かから「来年もあるんですか?」という質問を受けたが、私は今は主催から外れているのでどうなるか知らない。ただ、もし「第5回」がなくなっても、これまでに知り合った健全な多くの方々とは、いつまでも仲間でいたいと願っています。また何かおもしろいこと、やりましょう。
2003年12月19日(金)

 KSBスーパーJチャンネルの私の出演は、今日が本年最後。岩井志麻子さんは韓国での年越しの準備とやらでまたまた休みって、誰か止める人はおらんのか(笑)。しかしKSBのこの夕方の生ワイド、私も出演し始めてもう足かけ4年ぐらいになる。その間、私は職が変わるという大変化、多賀さんはすっかりKSBの顔になり、一介のレポーターだった(笑)大倉君はニュースを読み始め、本庄さんはどんどんきれいになり、岩井さんはホラー作家からバラエティー系に進化し(進化か?)、プロデューサーの後藤さんはもう定年だ。ゆく川の流れはなんとやらであるが、「なんとやら」と言う人に「なんとやら」の正しい言葉を聞くのはタブーである。とりあえずまだ、来年3月までは出てバカなコメントしますのでご辛抱下さい。
2003年12月18日(木)

 ほとんど1年半ぶりに高松の線路の横の「一富士」へ行って昼飯を食った。会社勤め時代はしょっちゅう行っていたのだが、退職以来とんとご無沙汰になっていたのである。一富士は私の中では日本一の「めし、しる、おかず」の店である。ま、香川以外の一膳メシ屋には行ったことがないのであるが。何しろここはごはんがうまい。みそ汁がうまいしおかずがうまい。おかずは種類が多いだけでなく、どれも量が多い。2切れ取れるタクアンが分厚い。おっちゃんとおばちゃんたちが飾り気のない「素」である。えー、めし小と汁とサバの焼いた片身とぬた和えとサラダとタクアン2切れ。興奮して取りすぎたけど、近年で最も満足度の高い昼飯であった。
 さて、本日はごんのマンションで巡礼達成者パーティーのレポート読みと選考と段取りの打ち合わせ。行ったら部屋に3mぐらいのでかいスクリーンがある。DVDもいっぱいある。部屋の前や横や後ろの方から音が出る装置がある。ほとんどプライベート映画館やがな。
団長「しょうがないのー。何か観てやるか」
ごん「打ち合わせちゃうんでっか!」
団長「合間の休憩やがな」
ごん「日付が変わりますがな! というか、まだ打ち合わせも始まってないのに休憩ですか!」
 とごんが言ってたような気もするが、空耳だったかもしれん。とりあえず、ぎょうさんあるDVDから私が観てないのを探して「ブラックホークダウン」をチョイスした。
団長「ブラックホークは強かったのー。日本の馬のヌレイエフの仔で一番強かったんちゃうか?」
ごん「知りませんがな」
 ま、最初は退屈だったのでうつらうつらしながら観てたら、途中から撃ち合いが始まった。それからずーっと、撃ち合いです。あれだけ撃ち合いばっかり続いてたら妙なもので、何か戦争というものを考えさせられますね。「仲間のために戦うんだ」というセリフ。「国のためではない」という意味にとればいいのかもしれないが、私は「国民のためでない」という意味にとって、非常に複雑でした。
2003年12月17日(水)

 今日は非常に示唆に富んだ2つの案件が入ってきて、現代のマネジメントノウハウのサンプルとして非常に役立った。いずれ大学の教材用に一例としてまとめることになるだろうが、「人間は誰も金で動くと思っているために、金で動く人しか周りに寄ってこない」とか、「感情が先に立って論理が破綻しているのに気づいていない人の周りに、同じく感情だけで論理の構築さえできない人たちが寄ってきて手に負えない集団になっていく」という浅ましい話や悲劇が出てきて、生々しくてこんなところには書けない。いずれにしても、20年前のマネジメントマニュアルが全く逆の効果を生みだしてしまうという例がかなりのペースで増えていることを、実感するのである。
 本日、明々後日の「讃岐うどん巡礼88カ所達成者パーティー」の私にとっての初めての打合せ。何やら忙しくて今ごろだ。今年は達成者が史上最高の450人くらいいるらしい。達成者の皆さん、さらに達成できなかったけれども楽しんで回ってくれた皆さん、どうもありがとうございました(と言っても私は去年ホットカプセルを退職したので今年はほとんど関わっていませんが)。頂いたレポートはどっかのタイムカプセルみたいに捨てずに全部ちゃんと読みますのでご安心を。
 
2003年12月16日(火)

 14日の日曜日の昼に小倉から帰ってきて、以後ずっと多くの人と会って多くの案件を進めて新規のマーケティングに取りかかってちょっと多忙なのであるが、内容は秘密だ。
 お知らせを2つ。

(1)「大阪麺通団」に12月17日(水)18日(木)の2日間、なんとパロマスが店に入ります。大阪初お目見えです。ファンの方(いるのか?)はぜひお写真など(笑)。

(2)「東京麺通団」の年末年始営業は、既報の通り12月31日オールナイト。1月1日は午後3時に終わって、2日、3日、4日休み。5日の午前11時再開ですのでよろしくお願いします。ちなみに大晦日にハイビジョン対応テレビ設置の件は、「あ、そんなことになるのか」というある理由でボツになりました。勝谷さんより「名誉ある撤退ですな」とのお言葉をちょうだいしました(笑)。ごめんね。
2003年12月13日(土)

 先月、大学行事でキャンセルになった小倉での講演が、本日に日を改めての開催となったわけで、行ってきました。「北九州青年みらい塾」という、何か「まちおこし」とかそういうものを志す青年男女が集まって勉強会とかをやっているグループの主催である。聞くと、「小倉の焼きうどん」を仕掛けているのはこのグループだそうである。あれだ。富士宮の焼きそば学会と「天下分け麺の戦い」(笑)をやったところだ。1時間半くらい、讃岐うどんの話と素材のポテンシャルの話と「誰をどうしたいのか」という話をして、質問を受けて、打ち上げで焼きうどんを食べてきた。小倉の焼きうどんは乾麺を使うのである。讃岐うどんから言わせてもらえれば、乾麺を使った時点で「麺のおもしろさ」は失われる、という印象であるが、確かに他の地域の焼きうどんとは違う。それにしても、一緒に出てきた牛肉はとんでもなくうまかった。屋台でラーメンと一緒におはぎがあるのにもびっくりした。小倉駅のプラットホームにある弁当屋さんの名前が「プラット・ピット」であるのにも目が点になった。
 しかし全国あちこちで取り組まれている「地域おこし」というのは、どこも「誰をどうしたいのかが具体的に掲げられていない」「まちおこしとやらの素材のポテンシャルが検証できていない」という、共通の問題を抱えていることを改めて確認した。象徴的に言えば、「やることが目的になっている」という、かつての行政のメンタリティ(今もか)を手本にしているのである。それは手本が悪い。「まちの活性化は民間の手で」と言いながら、その民間の多くは組織になった途端、行政の手法をなぞるのである。青年会議所がその代表的な例である。打ち上げで話したみらい塾のメンバーの中には、その辺の落とし穴に気づいて組織的危機感を持っている人たちもいた。讃岐うどんブームに端を発したと言われる我々は、ただの麺通団である。みらい塾も「ただのおもしろがり屋」の要素を重要視して欲しいなあと思いながら帰ってきた。今回お世話になったみらい塾監事の竹中君は四国学院大学のOBで、彼の大学時代の恩師である山崎先生を通じて今回の小倉訪問となった。山崎先生、竹中君が「よろしくお伝え下さい」と言ってました。

<本日お会いした主な方々>
北九州青年みらい塾の皆さん。
2003年12月12日(金)

 ボルボ退院。走行音、むちゃくちゃ静かになったがな。
ごん「当たり前です」
 きょうはそんなとこかな。
ごん「そんだけかい!」
 じゃ、東京麺通団大晦日興業にタイトルをつけようという話が出て、「行く年、来る年」では芸がないし…とか言っていたら「ゆくとし、かずとし」という案が出てきて私が全力を挙げて却下したことを付け加えておこう。

<本日お会いした主な方々>
漆原先生、真鍋助手、前田、阿部他学生多数、多賀アナ、本庄アナ、畑嶋アナ他KSBスタッフ、国村さん(ヨシイモータース)他。
2003年12月11日(木)

 さぬき市の「市民会議」にコーディネーターとして出席。この会は去年合併して誕生した「さぬき市」が何か長期ビジョンみたいなのを策定するらしいのに関して、市民にもいろいろ考えてもらおうとかいう趣旨のような会で…
ごん「あんた、ほんまに漠然としか捉えてないのがバレバレですなあ」
団長「いいの」
 とにかくそんな感じの会で、今日が最終回の第4回目。公募によって集まった市民の皆さん10数人とオブザーバーの方々と市の関係者とコンサルティング会社の方々とコーディネーター3人(私と四国新聞の明石さんと建築科の多田さんという香川の3大行き過ぎた先進家)がメンバーである。
 こういう会は往々にして「市民対行政」という図式になり、市民は行政に不満や改善要求を挙げ、行政はそれに対し「善処します」という、ただの“ご意見伺い会”になる。あるいは「みんなが安心して暮らせるまちづくりを」とか「活気あふれる地域づくりを」とか「豊かな自然の田園都市構想」とか、言った途端に思考停止するようなお題目が並ぶ会になる。そういう場面をこれまでいろんな市や町で何度も何度も見てきたので、この会では一度みんなオールクリアして、「将来、例えば30年後とか50年後とか、さぬき市はどうなっていたら素晴らしいか、自分の孫やひ孫がここで大人になって生活する時、どんな市になってたら素晴らしいかを考えてみよう」というテーマで、一貫して4回の会を進めてきたのである。だいたい目指す具体的な目標がなかったら取り組むべき戦略なんて出てこないのだから。そこで「今あるものを改善する、みたいな話は、今回の会議では“なし”です」ということを初めに念を押して言って、第1回からやってきたのである。
 結論から言えば、「今あるものを改善する、みたいな話は、今回の会議では“なし”です」ということを最後まで言い続けて終わりました(笑)。何回言ってもみんな、自分が生きているうちのことしか話さない。モグラたたきやってるみたいでした。おしまい。

(追伸)
 夜の9時頃、さぬき市から明石さんの車に乗せてもらって帰る途中、明石さんが「昨日返さないかんビデオを返し忘れとった」いうてレンタルビデオ屋に立ち寄る。ビデオ屋の駐車場で待ってたら、店に入った明石さんが、ビデオを返すだけなのになかなか帰って来ない。しばらくして帰ってきた明石さん、
明石「田尾ー、もうちょっと待っとってくれ」
団長「何ですか」
明石「外国人のおねえちゃんがコンフューズ(混乱)しとんや」
と言って、また店に入っていった。10分ぐらいして、明石さん帰還。
団長「何があったんですか」
明石「いやー、俺の前に外国人のおねえちゃんがビデオ返しに来とったんやけど、何か借りたビデオが日本語版やって全然わからんかったから替えてくれとか言いよんやけど、店員英語がわからんで全然話が通じてないんや。そやから何とか通訳して取り次いであげたんやけど、見たらおねえちゃんの返しに来たビデオのパッケージにめちゃめちゃ小さい字で“日本語版”いうて書いてあって、こら外国人にはわからんわー思ての、店員に“これはかわいそうや。タダで交換してあげた方がええで”言うたら店員が“仕方ないですねえ”言うて交換してあげることになって、とにかくその場が解決したんやけどの」
団長「よかったやないですか」
明石「ほんで、店員が俺に“どうもありがとうございました。えーと、延滞金420円です”って、おねえちゃんタダで交換してあげたのに俺からは取るんかい!」
 親切は報酬を期待したらいかん(笑)。

<本日お会いした主な方々>
明石さん(四国新聞論説副委員長)、多田さん(建築家)、佐藤さん(さぬき市)、さぬき市の市民の皆さん、コンサルティング会社の方々、赤沢市長、さぬき市の職員の方々、他。
2003年12月10日(水)

 東京麺通団「年越し興業」のスタッフ集め開始(ま、電話かけただけやけど)。とりあえず、以下のメンバーが12月31日夕方から1月1日昼過ぎまで、微眠微休で店に立つことに決定しました。

田尾(麺通団団長。ゆで卵の殻むき得意)
ごん(麺通団団員。コンピューター事業部長なのにうどんが打てるし小料理得意。こないだ田尾教授の教え子の女子学生に「ごん、かっこええ」と言われて「人生、もう一度がんばってみようか…」と考えている)
H谷川君(麺通団員。自動販売機の中身詰め替え関係の仕事。まだ一人で電車の切符を買えない)
M村(麺通団員。怪しい植物栽培関係の仕事)
別P君(麺通団員。讃岐うどん徒歩巡礼の祖)
O西(珍獣。一応独身女性)
福田社長(宮武讃岐製麺所。当日は倒れるまでうどん打つ)
*他に、もうちょっとメンバー増えるかもしれません。

団長「交通費支給じゃ」
M村「やったー」
ごん「宿泊費は?」
団長「東京麺通団泊やないか。宿泊費はユンケル2本支給。一番安いやつね」
ごん「おっさんおっさん!」
 なお、当日は店内に薄型ハイビジョン対応のテレビが設置されることになった。
ごん「どこから持ってくるんですか」
団長「買う。もう店に設置しちゃう」
ごん「あんな高いものを! 何に使うんですか!」
団長「紅白見ないかんし。あ、テレビは従業員の方に向けて設置するように言うとかないかん」
ごん「あんた、何か間違ってます」
 大丈夫です。お客さんも見えるように設置しますから。
ごん「“お客さんに”でしょう!」
 大晦日の「朝まで生テレビ」に勝谷さん出るから、ずーっと映しとくかな。テレビ終わったら皿洗いとかしに来てもらわないかんし(笑)。

<本日お会いした主な方々>
羽野さん、Y口、鎌D(以上羽野編集事務所)、他。
2003年12月9日(火)

 朝10時、東京麺通団にて「夕刊フジ」の取材を受ける。パロマスと私が待っているところへ来たのは、若い女性編集者。遅れて吉本のマネージャーが来て、編集者の彼女を我々に紹介した。
マネ「田尾さん、この人ね、香川の出身なんだそうですよ」
団長「ほんまですか!」
マネ「しかもおうどん屋さんなんですって」
団長「えー! どこですか」
編集「いやうどん屋じゃなくて、製麺所ですよ」
団長「どこの?」
編集「たぶん知らないと思います。小さいところで誰も知らないような場所にあるし、うどんの本にも載ってないし」
団長「高松?」
編集「高松ですけど」
 私は秒速2万回転で情報をたどり、思い当たる2つの候補に絞り込んだ。
団長「南の方?」
編集「南というよりは…西の方かな」
 よし! 1軒に絞られた。
団長「そこ、ちょっと山に登りません?」
編集「……」
団長「車が対向しかねる細い道から、斜めに山道を上がって行く…」
編集「……」
団長「何か表で金魚みたいなん飼ってますよね」
編集「何で知ってるんですか!」
 うっしゃー!(小さくガッツポーズ)安藤ー、4、5年前にお前が見つけてきたあそこじゃー。あそこの娘さん、東京でライターしよるぞ。

<本日お会いした主な方々>
パロマス、マネージャー(吉本興業)、Sさん(編集&ライター。名前書くと製麺所わかるし・笑)、小池(TJネット本部)、今野社長(せんだいタウン情報)、清水社長(ながの情報)、高井さん(にいがたタウン情報)、永井さん(タウン情報おかやま)、鐵東さん(奈良のタウン情報ぱーぷる)
2003年12月8日(月)

 朝10時前、東京都千代田区猿楽町のタウン情報全国ネット本部に到着。小池と明日の理事会の打合せを済ませたら、珍獣大西が一枚のチラシを持って来た。セシールの「さぬきうどん人気穴場探検隊」なる通販チラシ。昨日の朝、四国新聞の折り込みに入っていたので私も見たのだが、大西はセシールの会員らしくて送ってきたというのである。
大西「これ、田尾さんじゃないですよね。田尾さんの文章をまねてるみたいだけど、微妙に変だし」
田尾「俺、関係ない」
 しかも文章の内容、ところどころ間違ってるし。私の書いた文章はたいてい記名ですから、無記名でよく似た文章を見たらまず私ではありませんのでよろしく。
 本日、麺通団P&Mの会議で、東京麺通団が大晦日にオールナイト営業することが決定した。しかも当日は高松から、私以下麺通団員数名が助っ人で店に入る。勢いで福田社長もうどんを打つハメに。勝谷さんは「朝まで生テレビ」終了後、店に連行されて皿洗いだ。詳細は後日。
2003年12月7日(日)

 ボルボ13号のABSの故障ランプがつき始めたのは、今年の3月頃のことである。
ごん「だから早よ直しなさいよ!」
 私は安全運転なので急ブレーキを踏むこともめったにないだろうとしばらく放って置いたら、因果関係は定かではないが車内に聞こえるエンジン音が次第に大きくなってきて、7月頃からカーブに差しかかると「ブワンワンワンワン…」とビブラートが入り始めたのである。
ごん「だからそれダメですって!」
 10月を迎え、木々が色づきの準備を始める頃、走行中にダッシュボードの右の奥の方で小さな「チリチリチリチリ…」という、何か微少な金属片が外れそうになっているような音がし始めた。それが11月の声を聞くとダッシュボードの真ん中奥あたりに移動し、師走になると左奥に移動したのである。
団長「何かが外れたな」
ごん「のんびりしてる場合ですか! 走行中に車、分解しても知りませんからね」
 運転中に前を走っている車のタイヤが外れて飛んできたという経験を持つごんにそこまで言われては仕方がない。本日、ボルボ850セダン、ナンバー「・・13」、通称ボルボサーティーン、ヨシイモータースに入院しました。全治5日間くらいだそうです。早期発見していたら全治2日だったようです。
団長「ま、早期に発見はしてたんだけどね」
ごん「だから気づいたらすぐに修理に出しなさいって!」
 ちなみに「タイヤ」で思い出したけど、「ダイヤモンド」はつづり(diamond)に「Y」が入ってないのになぜ、多くの人はカタカナで書く時、ダイ「ヤ」モンドと書くのか。あ、タイヤ(tire)もね。誰か「ダイアモンド」「タイア」と書く運動を起こしてくれ。
ごん「あんたが起こしたらええやないですか」
団長「私はそこまで真剣でないから傍観してる」
ごん「おっさんおっさん!」
2003年12月6日(土)

 だいたい忙しい時には日記が飛ぶのであるが、あと、ちょっとした大ネタがある時も「どこまで長編に書き込もうか…」と考えているうちに飛ぶのである。

 猿、失礼、去る10月7日、大阪麺通団のオープン日の朝にホテルで腎臓結石の石が降りてきてのたうちまわって以来、何か重要な行事のある前日は体調には十分に注意を払っていたのである。その節制のおかげで以来2カ月、何事もなく無事に本日、12月6日の午前0時を迎えたのである。
 午前0時半、仕事をしていた私は、この日の朝8時45分に丸亀オークラホテルに勝谷さんを迎えに行って大学に送り、いよいよ学術祭の本番が始まることになっていたので、そろそろ寝るか…と思ってパソコンを終了させようと思った時、左下腹部あたりに小さな鈍痛を感じた。何じゃこりゃ…と思いながらも小さな痛みだったので、「腹、冷えたんやろ」と思って風呂に入り、体を温めて出てふとんに入ったら、小さな痛みがちょっと大きくなってきた。ま、寝てたらそのうち収まるやろ…と思って無理やり目をつぶったが、ちょっと大きくなってきた痛みがだいぶ大きくなってきて、それでも無理やり寝て、でも痛みで寝られずに起きて…を繰り返していたら、午前3時半になったのである。石が降りてくる時の痛みとはちょっと違う。さすがにこれはいかん、と思って私は高松赤十字病院に救急の電話を入れ、冷たい小雨の降る中、家内に送ってもらって午前4時に病院に行ったのである。
 救急患者は私一人であった。しばらく待たされて診察室に入り、医者に尋問を受けて触診を受けて、私は医者の言葉を待った。
医者「左の下腹部ですね。ここには大腸しかないんですよ。女性の場合は卵巣がありますけど、ありませんよね」
団長「あ、ないと思います…」
医者「熱もありませんし、大腸が痛いということは、考えられるのは…。最近便秘気味ということはありませんか?」
団長「まあ、どちらかといえば便秘気味かもしれませんけど…」
医者「それの可能性が大きいですね。救急の患者さんで結構多いんですよ」
団長「ということは…」
医者「要するに…」
団長「ウンコが詰まって痛いと」
医者「そういうことですかね(笑)。とりあえず写真を撮って確かめてみますか」
 私は言われるままに看護婦さんに連れられて診察室を出た。表の待合室で心配そうに待っている家内に「ウンコ詰まってるみたい」と言うと、家内は目が点になっていた。
 レントゲン室で写真を撮って、それを持って再び診察室へ。写真を見ながら医者が言う。
医者「うーん、それほど詰まっているようではないですけど、少しはありますね。じゃ、便秘用の錠剤を出しておきますから、それを飲んでみますか」
 私はちょっとホッとしたが、すぐあることに気づいて言った。
団長「その薬、どれくらいで効き始めます?」
医者「だいたい5〜6時間くらいですかね」
団長「それ、ダメ! イベントの真っ最中に効き始めるがな!」
医者「じゃ、そうですね、浣腸しますか」
団長「それはどれくらいで…」
医者「速効です」
団長「オッケーです」
医者「じゃ、看護婦さんが使い方を説明しますので、表で待っててください」
診察室を出たら、待合いの長イスに知らない人が4人も座っていた。新たな救急患者とその付き添いの方か…と思った瞬間、私は自分が置かれたピンチにハッと気がついた。ヤバイ! と思う間もなく、看護婦さんが浣腸を持って出てきた。
看護「田尾さーん。今から浣腸の使い方を説明しますからね」
 長イスの4人がチラッとこっちを見た。(うわっちゃー!)しかも、「これですけどね」と言って看護婦さんが取り出したのは、球の部分が直径5センチ、先の部分が全長15センチはあろうかという、小学校の時に教室で栽培したグラジオラスの球根から異常に長い芽が出たような巨大な浣腸。
団長「それ、人間用ですか?」
看護「人間用ですよ。まず下の球に入っている浣腸液をお湯につけて人肌くらいに温めて、ここをひねってからこの先を肛門に入れてくださいね。成人の人はだいたい10センチぐらい入れてくださいね」
団長「10センチ!」
 長イスの4人のうちの2人はきっと患者でそれどころではなかったと思うが、付き添いの2人はパートナーを心配しながらも、明らかに耳がダンボになっている。私は説明を受けた後、その巨大な浣腸をもらって病院を後にした。冷たい雨の降る午前5時前のことであった。
 日記なので一気に端折るが、その日の午前10時、勝谷さんらと一緒に大学の会議室で打合せをしている時にトイレに行ったら血尿が出て、同時に小さな痛みが一緒に出たような気がしたとたん、下腹部の痛みはウソのように消えて絶好調になった。石やがな! ちっちゃい石が降りてて痛かったんやがな。最初からわかってたら、知らん人の前で浣腸の説明を受けんでもよかったんやがな! 今朝の睡眠時間2時間。イベントが終わって打ち上げまで出席して、夜の9時に解放されました。しかし、勝谷さんと何かあるという時に限って石が降りてくるが…(笑)。
2003年12月5日(金)

 ふー、3日飛んだ。理由は12月2日の夜、例の学術祭用資料冊子の後の工程を真鍋以下学生に念を押して説明して、翌日12月3日は福田社長夫妻と明石の「ラーメン波止場」の内覧会に行って「はまんど」で盛の大将に会うたらそこにRSKの石原Dが来ていていろいろ話してラーメン食って大阪麺通団に行ってあれやこれや指示して夜、難波のホテルで取材を1件受けたあと夜中の3時まで原稿を書いて、翌朝12月4日大阪を発って岡山で真鍋に電話を入れて「冊子は大丈夫か?」と聞いたら「完璧です」言うたので安心して高松に帰って自宅で大学のいろんな資料を作成して夕方ごんを連れて大学祭の打ち上げに参加して夜また遅くまで仕事して、翌朝12月5日に大学で学術祭の打ち合わせ会をして最後の会場準備やリハーサルをやっていて午後3時頃、ふと例の資料冊子の確認をしに事務室に行って見たら、これが雑な閉じ方をして学芸会レベルの冊子に仕上がっていたのであわてて学生を集めて「やり直しじゃー!」言うて、もう明日が本番なので一から全部やってたらコピーだけでも4時間ぐらいかかるので何とか早く修正する方法はないかと考え、冊子の3辺をカットして整えようと考えて大きなカッター(あの台の右側にナタみたいなのがついててA4ぐらいの紙までガシッと切れるやつ)を出してきて冊子を置いて切ろうとしたらページ数が多いからなかなか切れなくて、さらに力を入れてガッ!ガッ! とやっってもなかなか切れないので身を乗り出して全体重をかけてガッ!とやったら紙と一緒にネクタイの先を飛ばして日記を書く気力がなくなったのである。
ごん「まあそういうことにしといてあげましょう」
団長「ほんまやって! ネクタイの先、カッターで切ってしもたんやって」
ごん「日記をサボった理由はそれ?」
 ま、正しくは毎日長編ネタが連続して、短くするにはもったいないが長く書くほどの時間はない、という苦悩の日々が続いていたというのが真相だ。何で日記に苦悩せないかんのや(笑)。
 本日はそういうわけでまたKSBのレギュラーを休んで明日の準備に追われ、夜は明日の出演者の韓国の韓南大学校の先生方や学術講演会をやる勝谷さんや学長以下四国学院大学の教授陣を交えて顔合わせの会食。終わって準備の残りを片づけて、深夜、家に帰ったのである。明日は本番。よって、また日記が飛ぶことが予想される。
2003年12月2日(火)

 12月6日の勝谷さんの講演に引き続き、四国学院大学で日韓国際学術セミナーが開催されるのであるが、このセミナーでは韓国2人、日本2人の4人が発表を行う(日本側の2人は橋本先生と私)ことになっている。4人の発表者はそれぞれA4数ページの発表資料を作成し、それぞれ両国語に翻訳された資料もつけて、1冊の簡単な冊子にして当日の聴衆に配る。作る冊子は目標100部。その冊子の作成に今日、私の指示の元、助手の真鍋をはじめ捕獲された学生数人が取りかかったのである。形態は「A4判中綴じ」。この形態を聞いて「これはそう簡単な作業ではない」と直感した人は、製本にちょっと心得のある人である。
 まず、手元にあるのはA4の片面にプリントされた資料が53枚、ノンブル(ページ番号)を打っていない状態で、一応順番に重ねてある。以上。作業の手順を言うよ。
(1)万一のことを考えて、まず資料を全部コピーして同じものをもう1セット作り、最初の1セットは「マザー」として手をつけない。
(2)コピーして作ったセットの1枚ずつに、別に作ったページ番号(1〜53)を貼っていく。
(4)白のコピー用紙14枚を重ねて二つ折りにして冊子の見本を作り、それに1ページから順にページ番号を打つ。
(5)それを再び広げてバラバラにし、何ページと何ページを並べてコピーしたらいいかを確認する。
(6)まず(5)で確認しながら(2)のA4を2枚並べて、14枚のA3にして100部ずつコピーする。
(7)続いてもう片面(同じくA4を2枚並べたA3)を、1部ずつコピーする。
(8)(6)で作った100部セットの1つめを用紙入れにセットし、その裏に来るべき(7)で作った1枚をピックアップして、コピーの上にセットし、100部コピーすると、A3で裏表コピーされた紙が100枚できる。
(9)これを繰り返して「A3で裏表コピーされた紙100枚を14セット」作る。
(10)14セットから1枚ずつ順に取って重ねて二つ折りにすると、A4中綴じの冊子ができるので、これを100セット作る。
(11)各セットの真ん中をホッチキスで留め、しっかり二つ折りにしてできあがり。
 資料は53ページであるが、両面コピーの中綴じであるから紙1枚で4ページになるため、できあがりは56ページで最後の3ページが白紙という冊子になる。そういう作業であった。手間はかかるが一つ一つ手順を間違わずにこなせば、まあそう難しいことではない…と、思っていたのである。しかし30分後、私は社会経験と作業経験のない大学1年生の実力をいきなり見せつけられることになる。
団長「真鍋ー、53ページやからコピー用紙14枚を重ねて二つ折りにしてダミー作ってページ番号打っていけ」
真鍋「わかりました」
団長「そっち、マザーをコピーしたかー?」
学生「できました」
団長「何ページあった?」
学生「えーと……52ページです」
団長「53ページちゃうんか」
学生「えーと、数え直しましたけど、やっぱり52ページです」
団長「なんとかー! 真鍋ー、ダミー作り直しじゃ。52ページやったらぴったし13枚の二つ折りじゃ。ページの組み合わせが全部変わってしまうがー。やり直せー」
真鍋「ひえー、必死で作ったのに…」
団長「おかしいなあ、ちゃんと数えたのになあ。もっかいマザーを数え直すか………あれ? マザー53ページあるやんか。おーい、こっち53ページあるぞー」
学生「ほんまですか?」
団長「ちょっとそっちの持って来い。マザーと1枚ずつ突き合わせて確認せえ」
学生「はい………えーと………あ、コピーの方、1ページ抜けてました」
団長「真鍋ー! 53ページじゃー!」
真鍋「ひえええー!」
団長「ひえーって、最初に作ったのがあるやろが」
真鍋「最初の分の上から書き直して52ページのダミー作ったんですけど……」
団長「………もっかい作れー!」
学生「すみません、ちょっと、ページの順がわからんようになったんですけど…」
団長「本文読んだら続き方がわかるやろが」
学生「いや、ここ、韓国語のページで…」
団長「貸してみい……さっぱりわからん」
学生「僕、知り合いに韓国の留学生がおるんですけど…」
団長「呼べー!」
 先述の作業手順は、はっきり言って(1)〜(5)までは難易度ゼロ。(6)から初めて難易度がつき始める作業なのである。私が唯一心配していたのは、14枚56ページの二つ折り中綴じをした場合、内側のページがどれくらいはみ出してくるか、断裁が必要なくらいはみ出てきたら何でどうやって断裁するか…という、その1点だったのである。いやー、大学生を買いかぶっていた(笑)。会社で部下に指示する調子でやったらいかんのかー。和田ー、きみら実は優秀やったんやなー。
和田「いや、そんなレベルで比べられてもあんまりうれしくないですけど」
 この日、作業の(6)を終えたところで夜の10時になったので、そこで本日終了。(6)までの間に起こったことをレポートしてたら長編になるのでカットする。

<本日お会いした主な方々>
橋本先生、学生たくさん、真鍋助手

<本日のお食事>
朝…家で食事
昼…はなや食堂でかけ大、いなり2個、イモ天、かき揚げ
夜…大学でホカ弁
2003年12月1日(月)

 私が友人たちと競馬の「暗号解読チーム」を結成したのはメジロデュレンが有馬記念を勝った時であるから、1987年の暮れのことである。当時、競馬好きだった私とDEKU氏(当時印刷会社勤務の会社員兼ストリートパフォーマンスチーム「ビニール解体工場」の主宰)が、土曜日のスポーツ新聞に出たJRAの有馬記念の広告「サラブレッドインフォメーション」に「手綱より絆」という広告コピーを見つけて、「今までのストレートな広告と何か雰囲気が違う…」「何かおかしいぞ?」と言い始めたのが最初であった。我々はそれを「JRAが広告のコピーで勝ち馬を暗示しているのではないか」と疑い(普通そんなこと考えるやつおらんわな)、その暗号を解読した結果、「手綱より絆(きずな)」ということは、今回のレースで手綱を握る騎手ではなく、馬と騎手の絆の深い馬、すなわちその馬がデビューしてからずっと同じ騎手が乗り続けている馬が勝つのではないかとの結論に達した。チェックしたらデビュー以来乗り代わりのない馬は全出走馬中メジロデュレンとユーワジェームスのただ2頭。で、その馬券を買ったら1着メジロデュレン、2着ユーワジェームスで163倍もついて、DEKUさんはその金を握って香港に旅行に(競馬をしに)行ったのである。
 以来、我々はG1レースになると土曜日掲載のサラブレッドインフォメーションのコピーの暗号解読をする傍ら、新しい暗号の発見に務めていたのである。ま、遊んでただけですけど。暗号解読の武勇伝は、本にしようかと思うほどたくさんある。「青春の到達点」というコピーの菊花賞で、「青春は学園じゃ」いうてガクエンツービートという馬から行ったらガクエンツービートが2着に入って40倍ついたり、「東の空にファンファーレ」というコピーのジャパンカップで世界の東の端の国ニュージーランドのホーリックスから買ったら1着で67倍、「GRAND PRIX(グランプリ)」というストレートなコピーの有馬記念で「GRAND(最高の)PRIX(賞金)」と解読して古馬最高獲得賞金馬のタマモクロスと4歳(今の3歳)最高賞金獲得馬のオグリキャップの1点で的中…
 そんな中でもう一つ、我々は「G1開催日の日曜洋画劇場の映画に勝ち馬のヒントが隠されている」という暗号に気づいたのである。会心の暗号解読は、1991年のオークス。まず、土曜日のサラブレッドインフォメーションに「緑の森の戴冠式」というコピーが出た。これで「緑=6枠」などという短絡的な解読をしてはいけないのは、経験からわかっていた(どんな経験や)ので、我々は広告には珍しい言葉である「戴冠式」に注目した。「戴冠式」と言えば「ナポレオンの戴冠式」。これを調べに調べた結果、ついにDEKUさんが「ナポレオンの戴冠式」の名画がルーブル美術館にあることを突き止め、イソノルーブルが最有力馬であるとの結論に至った。さらに、オークスの日の日曜洋画劇場は岩下志麻主演の「桜の木の下で」(洋画でないがな)。思い起こせばオークスの前の4歳牝馬G1である桜花賞の日、イソノルーブルは桜の木の下であの有名な落鉄事件を起こしたその馬ではないか! 我々は確信を持ってイソノルーブルの単勝に腰が抜けるほど張ったら(ま、2000円ですけど)、1着で単勝10倍もついたのである。
 あれからずいぶん経った。サラブレッドインフォメーションはその後コピーのテイストが変わって全然暗号にならなくなり、私も1年近く競馬から遠ざかっていたのだが、こないだJRAから催促も来たし…と思って迎えた昨日のジャパンカップ。日曜洋画劇場のタイトルを見たら、ドラマスペシャル「流転の王妃・最後の皇弟〜7000キロ逃亡の旅」……こら逃げ馬やがな。結果はご存じの通り、伏兵タップダンスシチーが大逃亡劇で単勝1380円、馬連7020円もついた。来週の日曜洋画劇場、「エリン・ブロコヴィッチ」ですけど、 暗号解読チーム、再始動しますか。
 さてと、いよいよ今日から、今週土曜日の四国学院大学学術祭の準備ですねん。あ、いそがし、あ、いそがし(平参平風に)。

<本日お会いした主な方々>
漆原先生、橋本先生、神野先生、学生たくさん。

<本日のお食事>
朝…家で朝食
昼…宮川でかけ大とチクワ天
夜…家で食事
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