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2004年03月の日記
2004年3月31日(水)

 本日夜、団長ご帰還されました。福岡(2年ぶり)、湯布院(15年ぶり)、別府(35年ぶり)に行って来ました。福岡はともかく、湯布院と別府、特に湯布院は情報誌やテレビで継続的に目にしていたのだが、行ってみるとマスコミから流れてくる情報から想像していたのとかなり違う情報がいくつも得られた。もう、手帳はメモでびっしりです。

ごん「小ネタばっかりで」
団長「考察じゃ! 観光マネジメントの考察メモ!」

 温泉宿で聞き取りをすると、例えばリピーター率の高い温泉宿でも、リピーターは1割もないと言う。考えてみれば当然ですね。湯布院に2回目行く時は、たいていの人は違う宿に泊まりますわな。でも、宿ごとにはほとんどが一見客でも、地域としてはバブル崩壊後もずっと観光客が増え続けている(昭和45年頃に年間100万人くらいだったのが今や年間400万人)。コンテンツのクオリティも必要条件だが、さらに重要なのは「数」ということ。たぶん讃岐うどん巡りブームと根っ子は同じです。さらにおしゃれな店が建ち並んで人がごった返すエリアで、驚く情報が。100軒もあろうかというあの店群の多くが、地元の人の店でないって。これは一つ、興味深い考察ができるぞ、と。

ごん「仕事してるじゃないですか」
団長「当たり前じゃ。ま、正確に言えば仕事はこれからやけどな」

 ちなみに翌日の午後1時半頃、別府の駅で2時間ぐらい時間があったので「地獄巡り」の観光バスに乗ろうとバス乗り場の時刻表を見たら、出発時間が黒字と青字で書かれていて(13:55は黒字、14:55は青字)、その下に注釈で「青字は七五調案内便」と書かれていた。何が心残りと言って、時間の関係で14:55の「七五調案内便」に乗れなかったのが実に悔やまれる。何ぞ、あれは。ガイドがずーっと七五調でしゃべるのか?「雨の降る日はしっぽりと、地獄巡りのバスの旅、坊主地獄に海地獄、あなたとわたしはアリ地獄…」とか。柳亭痴楽かい!(知らんか)

ごん「やっぱり小ネタ拾ってますやん!」
2004年3月27日(土)

 明日から3月31日の夕方まで、大学講義の観光マネジメントの現場情報収集を兼ねて、九州に出かけることになりました。ということは、勝谷さん曰く「田尾さんのパソコンは外に出たらただの箱になる」ので日記の更新ができない、と(笑)。すんません、4月1日まで日記、お休みです。

田尾「言うとくけど、メールも取れんぞ」
ごん「威張ってどうするんですか」
2004年3月25日(木)

 昨日、今日と、学科の2004年度の履修指導ということで、久しぶりに学科の学生がほぼ全員集合して顔を合わせた。今日は学生みんなを教室に集めて、学科の教務主任の伊藤先生が履修登録の説明と注意をレクチャー。他の先生はその周りで待機していたのだが、私はまだ大学2年目なので、指導しようにもよくわからないことが多いため、伊藤先生の説明を学生と同じようにメモしながら聞いていた。
 待機中、ベドロー先生と立ち話。

田尾「僕ね、英会話のCD買うてこないだから聞きよんですよ」
ベド「何のCD?」
田尾「×××の××××とかいうやつ」
ベド「んー、それは…たぶんノーグッド。んー…ペラペラペラ……」

 ベドロー先生は説明に入ると英語になる。私は必死で単語を聞き取りながら、要するに「私の授業に出たらいい」みたいなことを聞き取った。

田尾「それ、いつ行ったらええんですか?」
ベド「んー、水曜日の朝の…」
田尾「オッケー!」

 小一時間ぐらいで伊藤先生の第一部の説明が終わった。伊藤先生が「一般学生への説明は以上です。質問がなければ、このあと教職課程を取る人だけ残って、あとの人は解散して結構です」と言ったら半分くらいの学生がゾロゾロと教室をあとにして、20人くらいの学生が残った。学生に教職課程用のプリントが配られる。プリントはピッタシ行き渡って、私の分は先生だから当然なかった。ふと見るとK田(男子学生)の横の席が空いていたので、私はプリントを見せてもらうことにしてK田の横に座った。

田尾「プリント一緒に見せてくれ」
K田「田尾先生も教職課程取るんですか?」
田尾「取るかい! ようわからんから一緒に聞いて勉強するんじゃ。言うとくけどな、俺、今年はベドロー先生の授業に出るからもう英語、大変なことになるよ」
K田「僕も英語、これとこれ、2つ履修しますから、きっと田尾先生よりうまくなりますよ」
田尾「何言うとんや。俺は本気でやったらそんなもんちゃうぞ。言うとくけどもう来年は君ら、俺に日本語で話しかけてきたって、俺、理解せんよ」
K田「それ、日本語の力落ちてますやん」

 先生の威厳、ゼロやがな。
2004年3月23日(火)

 昨日の「ピーターファンデンホーヘンバンド」の後、頭の中を「カンワンプライソンポーン」がぐるぐる回ってるんよなあ。

ごん「何ですかそれ」
田尾「カンワンプライソンポーンいうたらお前、ボンニットキットヨーテンやないか」
ごん「あの、どう相づちを打てばいいのかわからんのですけど」
田尾「そうなると、モンコントンスイートクンが出てくる…お、出てくるぞ、ソムチャイルークパンチャマにベンディントーンスーリーソートーンじゃ」
ごん「あの、団長、気をお確かに」

 沢村忠が戦ってきたキックボクサーの名前じゃ。ちょっとうろ覚えやけど。

 本日、打ち合わせごと2件。夜、ついに「超麺通団2」の原稿が進み始めた。進み始めたらもうできたも同然だ。予定では本文40字×4500行くらいのところ、本日はバリバリ進んで約28行あたりで寝た。
ごん「どこができたも同然ですか!」
 私はいつでも前言を撤回できる。できたも同然ではない。書いてないも同然である。
2004年3月22日(月)

 本日、履修登録の教職員説明会。ベテランの先生はどうってことないのかもしれないが、2年目で担当科目が1.5倍になる私は「近づいてきたなあ」という実感がジワジワと来る。まだ準備万端でないがな。

 万端でないのに、「超麺通団2」の第一稿の締め切りがついに今週末に迫ってきた。まだ1行も書いてないぞ。こないだの打ち合わせで「今度は団長の事件簿みたいな読み物で行こう」となったのだが、何から手を付けてどう構成したらええか、まだ全然まとまってない。晩飯食いながら何の拍子か「由美かおる」の名前が出てきたら長男が「何や“どっちが名前や!”みたいな…」とか言うもんだから、それから家族4人で「どっちが名前や!みたいなやつ合戦」が始まって、「ちあきなおみ!」「こずえ鈴!」「美里美寿々!」「かつや・まさひこ!(笑)」…何やっとんじゃ、うちの家族は。

 仕方ないから夜、気分転換というか、煮詰まってアップタウンに逃げ込んで、何かきっかけをと思って牛乳屋さんとマスターとねえちゃんと話してたら何やわけのわからん言葉の知っとる合戦になって、「ハラッパ・モヘンジョダロや」「モホロビチッチの不連続面じゃ」「スリジャヤワルダナプラコッテや」「ピーターファンデンホーヘンバンドじゃ」って、気分転換の場所、間違ったかなあ。もうええ、今日は早よ寝て明日の朝、早起きして取りかかろう…という作戦は今まで何十回と試みて早起きできたためしがないんよな(笑)。
2004年3月21日(日)

 言うとくが、金曜日締め切りの原稿はすでに上げたからね。

ごん「あのみなさん、これ、すっと流したらダメですからね。おっさん“金曜日に上げた”とは言うてないですからね」
田尾「お前ほんまにツッコミが細かいなあ」

 とりあえず金曜日締め切りの原稿を上げて、ちょっと気分転換に部屋の片付けをしていたら例によってどんどんはまってしまって本棚の移動から家中のあちこちにある本を全部引っ張り出して整理し直し始め、とうとう資料整理から名刺の整理まで始めてしまって、気がついたら土曜日締め切りの原稿を書けないまま、日曜日に東京麺通団のミーティングに新宿へ行くハメになってしまったのである。

 日曜日は東京日帰り。用事を済ませて18:30に羽田空港にたどり着いて18:55羽田発高松行き最終便を待っていたら、待合室にアナウンスがあった。要約すると、こういうアナウンスだ。

「18:55発高松行きは、切符よーけ売りすぎてみんなが乗ったら乗れんやつが出てくるかもしれんことになりました。そやから、19:00発の徳島行きに変更するか、明日の便に変更する人を募集します。徳島行きに変更してくれたら、徳島から高松までの特急の交通費と、さらに現金1万円つけます。もし明日の便に変更してくれるなら、何と今晩の宿泊費と現金2万円もつけちゃいまーす。どないでっかー?」

とかいう感じ。
ごん「どんな言い方ですか!」

 で、しばらく見てたんだけど、誰も変更を申し出ている様子がない。ほんまに困ってたら私が申し出てあげようか…と思っていたら、アナウンスがあって改札みたいなところが開いて、行列がゾロゾロとバスに乗り込み始めた。「大丈夫なんか? 誰か変更して乗れるようになったんか? けど申し出てるやつ見てないぞ…」と思いながら私も流れでバスに乗り込んで、それから飛行機に乗り込んで席に着いた。満席だ。あふれたやつ、どないしたんや。見渡しても通路に座ってるやつはいないし、スチュワーデスのひざの上に座ってるやつもいない。
ごん「おりますかいな!」

 飛行機は重々しく飛び立った。この満席は、どうも連休で東京に遊びに来てたカップルや家族連れのせいらしい。私の席の前は小さい子ども連れの夫婦。通路をはさんで隣とその後ろは小さい子供を2人連れた家族、その前も小さい子供を連れた家族。子どもは大声を上げるわ泣くわ歩くわ走るわ、隣の家族のじいさんは何やら間違ってスチュワーデス呼び出しのボタンを2回も押すわ、それを後ろの家族が叱るわ、と思ったら右隣のおばさんがお菓子を食い始めるわ…。

 たまらずイヤホーンをしてチャンネルを押したら全然音がしてこん。ボリューム上げてもうんともすんとも言わん。私はもう死んだふりをして、スチュワーデスが「お飲物は何にしましょうか?」と回ってきても「いらん」言うて1時間耐えた。機長がアナウンスで「本日はオーバーセールでご迷惑をおかけしました」と言った。やっぱり誰か、迷惑を被って乗ってるやつがいるのか? 荷物室でいたとかトイレの中で1時間いたとか。

ごん「だからいませんって!」
田尾「やっぱりどこかのスチュワーデスのひざの上に…」
ごん「いや、それは逆に迷惑でないし」

 10数分遅れで高松空港に着陸しました。席を立ち上がったら、イヤホンの先が抜けていました。そらうんともすんとも言わんはずや。
2004年3月17日(水)

 今日は一日、全然ダメ。明後日締め切り予定の原稿にかかろうとしたけど、新連載なのに内容もタイトルも決まってない。一日中なんにも企画が浮かんでこずに時間だけが経過して、同時進行している他の原稿(4本)や企画(2件)や資料(3つ)や授業計画(9科目)作成の案件に手を出しかけては戻り、出しかけては戻り、結局全部、全然進まずに現在夜の11時半。こんなん書いとる場合やないっちゅうねん。今からベランダに出て、闇の中で連載企画を考えるっちゅうねん。
2004年3月16日(火)

 本日、大学の卒業式。研究室で講義準備をして、来客があって、帰りに国分寺のアミチャーベーカリーでパンをしこたま買ってたらレジのおねえさんに「今日はうどん巡りじゃないんですか?」って。だからそんなに毎日うどん食ってないって。回転寿司に行ったら隣に座った知らんおばちゃんに「あらー、田尾さんもお寿司とか食べるんですねえ」とか言われるし。ほんまにもー。

 夕方、家内に「3月いっぱいで閉める大的場健康センターの回数券が余っとるけん、行こ」と言われて、ビー・クォーター飲んで自転車こぎに行って、夜さらにアップタウンまで歩いて行ったら牛乳屋さんがいた。聞いたら牛乳屋さん、子どもの頃、正月から5月ぐらいまでほとんど毎日雑煮食ってたらしい。

田尾「どんな家庭ですか!」
牛乳「私が“もうこらえてくれ!”言うまで雑煮が出てくるんや」
田尾「それ、正月に倉庫いっぱいモチを積み上げとらんかったら5月まで持ちませんよ」
牛乳「いや、積み上げてなかった。どこから調達してきよったんかわからん」
田尾「わかった、たぶんね、牛乳屋さんとこの親、毎週香川県中の棟上げを追っかけよったんですよ。昔おった“棟上げの鬼”、やっりょったんちゃいます?」

 牛乳屋家の謎である。どうでもええけど。

 小学館の封筒で家に「週刊スピリッツ」が送られてきた。先月「美味しんぼ」のスタッフの方から電話がかかってきて「讃岐うどんについて教えて下さい」とか言うので話してあげたら、今発売中のスピリッツの「美味しんぼ」に麺通団と「恐るべきさぬきうどん」がチラッと出てました。

 ちなみに1カ月くらい前でしたか、何かのマンガに「究極の冷凍うどん」とかが出ていて、「家庭で湯で戻す時に麺がちょっとゆるむから、生地の段階で少し固めに作ってある」みたいなことを書いてたけど、それ、うまいうどん作りの基本からしたら、生地の段階でダメですやん(笑)。
2004年3月15日(月)

 記憶の新しいうちにと、昨日の「THEかがわ」の原稿を一気に書き上げて送ったら、修正依頼をくらった。本文はまだ明かせないけど、まるでプリンをスプーンですくったかのような山のネタのオチで「石田純一も“プリンは文化だ”言うとったやないか」と締めたら、「そんなオヤジのゴルフ場トークみたいなオチはいかん」って(笑)。まあ、県政だよりやからなあ。いかんわなあ(笑)。

ごん「というか、それ以前にギャグのレベルの問題がありますな」
田尾「ほっといてくれ」

 夜9時半頃、ビー・クォーター飲んで(もうええっちゅうに)街を歩いていたら、香川大学の前あたりの車道にOLらしき女の人が立って、何やら黒い物体を前にかがんで何か手をかざしたりしている。道のこっち側から見ていると、どうも黒い犬が車にはねられてうずくまっているようで、死んでいるのか虫の息なのかピクリともしないのをかわいそうに思って何とかしようとしているようだ。家内と助けに行こうかどうしようかと立ち止まったが、片側4車線道路で車が行き来してすぐには向こうに渡れないし…と思っていたら、トラックが一台止まって、男の運転手が降りてきて近づいたかと思うと、犬を抱きかかえて歩道の植え込みの横に置いて、手を合わせてから車に乗って去っていった。女の人はしばらく犬のそばにいた。暗くてよく見えなかったのだが、まだまだ優しい人はいるものです。街を歩くと、いろんなことに出会うなあ。

 明日は大学の卒業式。4月からの講義準備も大変。
2004年3月14日(日)

 早朝から県政だより「THEかがわ」の小ネタ撮影で観音寺へ向かう。途中、「イモムシの山」「アルマジロの丘」というオバカネタをチェックしながら現地に到着。カルチュラル・マネジメント学科助手の真鍋(観音寺在住)を“撮影のオモチャ(笑)”に呼び出して撮影を終えた。

 さらなる小ネタ探検をしながら帰り、豊中、綾南、国分寺あたりであちこちの家に鯉のぼりを掲げているのを発見。まだ3月だぞ。

田尾「ここらあたりでは桃の節句に鯉のぼりを上げるんか?」
Y口「そういうわけではないんでしょうけど…」
田尾「季節の先取りったって、雑誌でも3月には4月号しか出さんぞ。日本の伝統はどこへ行った」
Y口「3月に雑煮を食べる人には言われたくないですけど」
田尾「確かに」

 高松に帰って、今日は午後3時半からビー・クォーター飲んで高松市街地まで家内と散歩した(片道約30分)。古新町のイッセイ・ミヤケで店長と30分ほど立ち話。タウン情報かがわの創刊頃、編集室がすぐ向かいのビルの3階にあったので懐かしい昔話をしていたら、店にいたお客さんが何と15年ぶりの喫茶POST(その編集室の下の喫茶で、昔よく行っていた)の奥さんで、昔話に油を注がれたがな。

 それから三越に行って、リキエルで店長をいじって遊んで何も買わずに店を後にする。三越の1階ではかつてのライバル「ナイスタウン」の「フレア」が何かキャンペーンをやっていた。昔ながらのPR手法ではあるが、こういうことはほんま、こまめにやる情報誌だ。行動力には感心する。同じ街に出るのでも、昼間から役員が飲み屋のおねえちゃんを連れて「何でも買うたらええが」とか言っていたどこかの情報誌とはえらい違いだ(笑)。

 それにしても丸亀町商店街、春休みの日曜日とはいえ、えらい人多いがな。平日の昼間の心斎橋ぐらい人が出てる(わかりにくい例えやな)。注意して見てたら、結局品揃えのセンスの悪い店に客が入ってないということやなあ。当たり前やけど。
2004年3月13日(土)

 県のボランティアワークショップの最終回。県民ホール、歴史博物館、文化会館、瀬戸内海歴史民俗資料館の4カ所でボランティアをやっている方々を集めての勉強会で、今回は私と橋本先生の進行で短い講義と意見交換会をやった。

 以前さぬき市の市民会議の席で市民の方から「ボランティア活動にもっと行政の資金援助が欲しい」という意見が出て、ボランティアというのは自発的に無償でやるものだと思ってた私は一瞬、「それはボランティアか?」と思ったわけです。
 続いて先月、あるボランティア団体から講演の依頼が来たのだが、趣旨を聞くと「ボランティア活動をやっているが、自分たちの活動を市民の人があまり知らないので、知らせる方法、PRする方法についてお話を頂きたい」と。「ボランティア活動って、みんなに知られないかんのか?」
 そして今回、意見交換の中で「施設に対する要望」みたいなのがいくつも出てきた。私は「自発的に無償で」参加するボランティア活動に「要望」が出るというのがどうも理解できなくて、「文句があるならボランティアやめたらええやん」というのをノドで抑えながら話を聞いていた。施設のボランティアについては3回のワークショップを通じていろいろ内容がわかって、「最初の約束のところで合意できてない」というのが問題発生の大きな原因のようですが…。でもねえ。

 聞くと今、国を挙げて「ボランティア活動の促進、支援」みたいな施策をうたっているらしい。何ですかそれ。意味がわからんのですけど。それって、ボランティアでなくてバラマキ福祉に変質してるんじゃないですか? 別にやってもいいですけど、自発的に無償で黙ってボランティアやってる人たちに申し訳ないですから、せめて「ボランティア便乗活動の促進、支援」とかに名称を変えたらどうですかねえ。

 本日より「ビー・クォーター飲んで夜中の徘徊…でなくてウォーキング」再開。夜の10時とか11時とか12時頃、家内と2人で高松市街地をウロウロしてます。
2004年3月12日(金)

 さて、今日は毎週金曜日の「日記更新の日」だ。
ごん「いつからそんなサイクルになったんですか!」
団長「俺はキミみたいに毎日アップタウンにワインを持ち込んで店のメニューを何も注文せんと自分のワインを飲んだくれてるような日々を送ってないんじゃ」
ごん「みんなに振る舞ってますやん!」
団長「俺はワイン好かんのじゃ」
ごん「それ、自分がええ目してないっちゅうだけの話ですか!」

 仕方がない。そこまでいうならこの1週間の日記を一挙掲載じゃ。

3月6日(土)
 福田社長と武林さんと会談しました。夜、遊ゼミに行ってツクシの炊いたのを食べました。

3月7日(日)
 明日締め切りの「論点香川」の原稿を書きました。

3月8日(月)
 大学に行って会議をして、取材を1件受けて帰ってきました。

3月9日(火)
 東京に行ってタウン情報全国ネットの会議に出ました。

3月10日(水)
 東京から帰ってきていっぱい原稿や企画書を書きました。

3月11日(木)
 尾道高校に行って出張授業をしてきました。

ごん「子どもの日記ですか!」
 まあこの間、いろんな大ネタ、小ネタが3つ4つ5つ6つあるのだが、全国の人には何の問題もないかもしれないが地元香川では少なからず誰かどこかに関わる話ばかりなので書けない。その中で、書いても差し障りなさそうな話はといえば、そうやなあ…、昨日の夜、家族で外食しようということになってとりあえず車で外に出て、車中で「どこに行くんや?」とか言って「それぞれ今食いたいものを挙げよう」ということになって、頭の中で「中華ではないなあ…回る寿司でもないし、麺類も違うしトンカツっちゅう気分でもないし…」と思っていたら、あぶ(娘)が「雑煮が食べたい」と言って、その瞬間全員が“雑煮の口”になってしまって往生したという話くらいか。
ごん「あんたんとこの家族、わかりません」
 ちなみにその後、車中では「なぜ雑煮は正月しか食べないのか」という話題で討論が始まり、「ちっちゃい餅が20個ぐらい入った雑煮とか、アリちゃうか?」「食堂のメニューに雑煮があってもええんちゃうん」「みんなが年中いつでも雑煮を食べるようになったら、モチの売上が365倍になるんちゃうか?」とか言いながら、ゆめタウンの「香港ガーデン」で中華バイキングを食べて帰ってきた。

 一夜明けて今日の朝、我が家の朝食は雑煮。全国でうちだけやと思う。
ごん「だからあんたんとこ、おかしいですって」
2004年3月5日(金)

 短大の大山先生が来て頼まれごとを受ける。実はこの4月にオープンするサンポートのシンボルタワーで、四国学院大学のサテライトキャンパスが開講するらしいのだが、その開講から3回連続で私に授業をやって欲しいという依頼である。ちょっと粘ったけど結局大学のPRにもなることなので受けちゃいました。4月27日(火)、5月11日(火)、5月18日(火)のそれぞれ18:00からのサテライト授業を担当します。講義内容はうどんと絡めたアイデア開発論のダイジェストになると思います。どうやったら受講できるかは、知らん(笑)。またわかったらお知らせします。ま、そのうちプレスリリースされると思うけど。

 本日夜はまたまたアップタウン。西日本出版社の内山さんが来て、「ええかげんに『超麺通団』を書いてくれ」という催促をされる。
団長「2月頃に原稿書こか…とかいう予定でしたやん。まだちょっと遅れてるぐらいで…」
内山「去年の2月の話です!」
ごん「あんた、1年も伸ばしてるんでっか!」
団長「お前なー、忙しいんぞ。次から次から用事が入ってきて」
ごん「どっちの用事が先ですか! あとから来た用事を優先してますやん!」
団長「電話しててキャッチホンが入ったら、あとから入ってきたのに先に話してた方を待たせてそっちに出るやろが!」
ごん「それ、例えが不適切」
 みんなでグルになって取り囲まれて、3月27日に第一パートの原稿を上げることに決められてしもた。ほんまに大丈夫かあ?
2004年3月4日(木)

 本日は朝から大学で用事を済ませて、助手の真鍋と漆原先生がいたのでなんだかんだ話してたら、ビー・クォーター2箱(40本)もくれた。ビー・クォーターは間もなくグレードアップしたニューバージョンが出るそうで、旧式の在庫を分けてくれたというわけだ。ウォーキング、再開せないかん。

 大学から高松に帰って、クレメントで八木さん(東京麺通団マネジャー)と打ち合わせをしていたら、何と久しぶりのアルボン伊藤と元ナイスタウン編集長・副社長の山田さんに、ほんまに数年ぶりに出会った。お互いに打ち合わせがあったので長話もできず、名刺交換してそれぞれの現状を確認しあって別れたが、かつてライバルであったけど麻雀までしあった仲。ここ数年で3人とも職が変わったけど、まあ元気で何よりです。

 夕方は四国新聞の記者から取材を受けた。要件は「高知競馬のハルウララ号についてコメントしてくれ」って、今さらなあ(笑)。夜、アップタウンに行ったらごんがいたので、某国の空港の売店で買った「ロード・オブ・ザ・リング〜王の帰還」の英語の本をやった。
団長「ここ見てみー、バギンス家の家系図まで載っとんぞ」
ごん「おー!」
団長「ここ、ホビット語かエルフ語か知らんけど文字の一覧まで載っとるし」
ごん「おー!」
 ま、全部英語の本やから、辞書引きながら、そうやなあ、ごんやから読むの2年はかかるな。
2004年3月3日(水)

 方やイラクに行っても日記を更新し続ける人もいれば、自宅か大学かタウン情報全国ネット本部を一歩出れば更新不能となる私がいる。本日夕方、某国より関空に帰ってまいりました。

 高松行きリムジンバスの発車までちょっと時間があったので何か食べようと空港内を探したら、去年発見した「冷凍うどんの釜玉」という意味不明のうどんを出す店がまだ営業しているのを発見。そのすぐそばに、新たに「さぬきうどん」のノボリをいっぱい出したうどん店ができていたのでそっちに入って「釜あげうどん」を注文したら、5分もしないうちに出てきた。「湯だめちゃうんかい」と思って食べたら、やられました。「冷凍うどんの釜あげ」です。だからそれは「釜あげ」ちゃうやろ!

 などと言ってる場合ではない。旅先で入った突然の訃報。先月、タウン情報全国ネットワークのメンバー誌である宇都宮市の「タウン情報もんみや」の橋本社長が心筋梗塞で亡くなったばかりだというのに、今度はいわき市の「タウンマガジンIWAKI」の社長の野崎さん(常磐交通の社長である)が、これまた心筋梗塞で急逝したというのだ。しかも年齢はたぶんまだ40歳になるかならないか。私は香川で大学行事や諸々があって告別式に出席できない。合掌。
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