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2005年03月の日記
2005年3月30日(水)

 本日は大学の研究事務室で、昨年5月から取り組んできた受託研究の最終報告書のページネイションというか、ファイリングの作業。去年からの研究スタッフである笹木と和田をお供に、約50ページの本文部分と、カラーデザインページ16ページの出力と貼り合わせ、カット、折り、それらのファイル綴じをまあ半日くらいで終えて、夕方か夜にみんなでうまいもん食って解散する予定だったのである。

 午前10:30に集合した私と笹木、和田の3人は、「“腹が減っては戦(いくさ)はできん”と言うやつはたいてい腹一杯になっても大した戦をしない」という法則をうち破るべく、まず「香の香」でうどんを食って、本日の作業に必要なA4の簡易ファイルを30冊買いに、100円ショップに行ったのである。すると、目当ての形式の簡易ファイルのB4とB5はあるのに、A4だけがない。
笹木「ないですね」
田尾「他の店行くか」
 しばらく走って発見した次の100円ショップは、さっきよりかなり大きい店だった。ところが、ファイルコーナーへ行くとまた、B4とB5はあるのに、A4の棚の所だけがボコンと空っぽなのである。
笹木「これ、おかしいですよ」
和田「何かありますねこれは」
笹木「入学シーズンで学生がメチャメチャ買いよんちゃいます?」
田尾「A4ばっかりか?」
和田「どっかの高校か大学が大量にA4ファイルの指定をしたとか」
笹木「この近くの大学いうたら……」
田尾「うち(四国学院大学)か!」
 明後日の入学式に新入生全員にA4のファイルが配られたら犯人は確定するのだが、大学が消耗品を100円ショップで大量調達はせんやろ。結局3軒目に行った大きな文房具店の隅に隠れたようなコーナーでA4簡易ファイルを発見した我々は、
田尾「さすがにここまでは気がつかんかったんやな」
と勝ち誇って(誰にや)、ついでに作業の合間に食べる飲み物やお菓子を調達して、
田尾「お、ピーナツチョコがあるが」
笹木「ダメですよ。今日は報告書のファイリングですから、手に付くようなおやつは禁止」
和田「チョコレートが付いた報告書を出すわけにはいきませんからね」
と「チョコレートのドクターストップ」をかけられて、仕方なく私はおやつなし、笹木が袋入りの丸いデカいゴーフルみたいなんを買って、大学に帰ったのである。

 研究事務室に入ると、そこはオリエンテーションの準備をする学生たちでごった返していた。2年のキャラ系女子軍団が私らを発見。
O西「あー、田尾さんやー」
S崎「田尾さんやー」
K田「田尾さんやー」
T野「田尾さんやー」
K村「田尾さんやー」
 もうええっちゅうに。
0西「田尾さん何するん?」
田尾「今から受託研究の作業や。手伝てもらいたいけど、最初は知的な作業やけん、いらん」
0西「うちら知的やんなー?」
S崎「知的やでー田尾さん」
田尾「どうも信用ならんな。まあその後、単純な連続作業に入るけん、そこで手伝てくれたらええわ」
S崎「ふーん、わかった」
田尾「けど作業は繊細さが要求されるからな」
O西「うちら繊細やでー」
S崎「うん繊細」
田尾「繊細って漢字で書いてみい」
S崎「むりむり」
田尾「どこが知的じゃ!」
 とりあえず繊細さを確認するために、笹木と和田がカラーページの修正とプリントをやっている間に簡単な会議録のファイリングを手伝わせることにした。助手の真鍋と辻田先生もつかまえて作業を開始していたら、S崎が何かをいじっている。見ると、さっき笹木が買うてきたゴーフルを見つけて、物欲しそうにいじり回しているではないか。
S崎「田尾さんこれうまそうじゃなー(岡山出身なので岡山弁でしゃべる)」
田尾「それはお前、笹木の食料やぞ」
S崎「けどうまそうじゃー。食べてもわからんじゃろー」
田尾「わかるわ! それしかないやんか! 欲しかったら笹木に言うてこい。1枚ぐらいくれるわ」
S崎「笹木さんってどの人ー?」
田尾「あっちでパソコンいじりよる2人の奥の方に座っとるやつや。文化人講座のコメントで俺と掛け合いでしゃべっとるやつや」
O西「えー! あの笹木?」
田尾「知っとんか!」
O西「いや、会うたことないけど」
田尾「呼び捨てにすな!」
O西「うわー、あの笹木やー。サインもらおうで!」
S崎「これにサインしてもらう?」
田尾「ゴーフルに書けるか!」

 わーわー言うております、おなじみのオバカ会話ですが、こんなの長編を書いてる場合ではないことに今気がついた。尻に火がついて背中に燃え上がって後頭部まで焦げつつある原稿を抱えているので、以下次号じゃ。事件はこの後、まだまだ起こる。
2005年3月29日(火)

 家から大学に行くまでの間に引っ越しのトラックに4回(7台)も出会うという、3月末ですなあ。情緒的になってる場合でない仕事の混み具合ではありますが、こちとら。

 昼の12時過ぎといううどん屋のラッシュアワーに「がもう」に行ったら、えらい行列に並ぶハメになった。ま、当然ですけど。今日は私の「がもう歴」の中で初めて、奥の製麺機の前の丸イスに座って食べるという思い切った作戦に出た。ま、別に思い切ることはないけど、表に出たら行列の視線を浴びながら食べないかんし、店内の5、6人しか座れん席は一杯だし、で、ふと奥を見たら丸イスが一個空いていたので、まあここも店内で天ぷら取ったりダシかけたりしてる客の視線を浴びるのだが、ま、ええか、と思ってちょっと思い切ってそこに座っていたおっちゃんとおばちゃんの間に入っていって座ったという、その程度ではある。

 ガモムス(がもうの息子)が寄ってきたので話してたら、横のおばちゃんがこっちを見て言った。
おば「あ、あの、テレビ出てる人やな?」
田尾「あ、いや、よう似てる言われるんですわ」
ガモ「あっはっは!」
田尾「すんません、出てます」

 今日は大学で18:00頃まで白熱の建設的なミーティング。その後、受託研究の最終チェックで追加原稿の依頼があったので、夜の11時くらいまで研究室にこもってメシも食わずに一気に仕上げた。こいつをプリントアウトして、明日一気に最終報告書の作成じゃ。
2005年3月28日(月)

 朝6時起きで原稿の残りに取りかかる。ちょっと声を出してみたら、クリアに戻っていた。ものすごく一安心。「ものすごく一安心」いうのは何か変やな。「世界最大の小」みたいな。「ジャイアント小枝」みたいな。だけど講演2本くらいで声が枯れるようでは、やっぱりまだポリープできる前の状態には戻ってないということなんだろうなあ。

 原稿を何とか上げて、それから大学に向かって、用事を一つ済ませて朝10時半くらいに久しぶりに飯山の「なかむら」へ行ったら、狭い店内には5人くらいが並んでいたのだが、釜の所を見ると生卵を入れた丼が5つくらい並んでいる。この瞬間、客のプロなら「ははーん、5人全員、かまたまを待っちょんやな」とわかりますね。そこで私は、おばちゃんの陰になっているセイロをのぞき込んで、水で締めた玉が5〜6玉あることを確認して、丼を取ってセイロに残ってた玉を2つもらって釜のところへ行き、釜の横に置いてあるテボに玉を移して、生卵を入れて麺がゆで上がるのを待っている丼たちに「どちらさんもごめんなすって」をやってテボごと釜の中に入れて麺を温めていたら、釜場担当の奥さんが言うてきたわけです。
奥「声はもう大丈夫なん?」
私「あ、何とか、おそるおそるな」
奥「しゃべりすぎやったんちゃうん?」
私「しゃべりすぎ。いやほんまに。医者にポリープの原因聞いたら、ほんまに“しゃべりすぎやろなあ”言われたがな」
と言っていたら、後ろから違うおばちゃんの声で
「しゃべりすぎやな」
「あんたようしゃべるけんなー」
「そやそや、しゃべりすぎや」
誰かと思って振り向いたら、知らんおばちゃんらが言うてた。目が合ったら、
おばA「田尾さんに会えたがな」
おばB「いやいや、来た甲斐があったがな」
おばA「やっぱりしゃべりすぎやったんやな」
 ほんまに、知らんおばちゃんにまで原因を決めつけられとるがな。とりあえず朝から大と天ぷら2つ。こないだ東京でO西の母ちゃんが言ってた「もんほんとに、何を食べても太るんですよ」という言葉が頭を回っている。太るわ!
2005年3月27日(日)

 一昨日からいきなり緊急ものが5つも押し寄せてきて(正確にはそのうち3つはほったらかしていたために緊急になったのだが)もう大変。ほんまに学習せんなあ。しかも今晩は家族でびくドンへハンバーグを食べに行ったのだが、数年前に行った時、300グラムのやつを頼んで死ぬ思いで食べきって「もう二度と300は頼まん」と誓った記憶があるのに、何か今日はいけそうな気がして300頼んで、腹パンパンになってちょっと残した。学習せんなあ。ごんは学校であんまり学習してないけど。

 さて、今日は昼から関学の同窓会の高松支部の会で1時間、夕方6時からロッキーの藤田さんが主催している「エンジェルファンド」という若手のビジネス勉強会みたいなところで1時間20分くらいの話をしてきて、終わったら声が枯れていた! やばいんちゃうか? 声帯ポリープ、またできたんか? 明日の朝、回復してなかったら、全身麻酔と1週間の無言生活が水の泡か? 不安を抱えつつ進める日記である。

 関学の同窓会支部会では「まあうどんの話とかしてくれたら」とかいう軽い要望だったのだが、行ったら詫間の横山町長(関学の先輩)が越境侵入(笑)していて「田尾さんが話するいうて聞いたけん、来た」と言うので、後半はちょっとマーケティングっぽい真面目な話に持っていった。終わったら町長に「いやー、タダでええ話聞かせてもろたわ」と言われました。

 その後の茶話会みたいなんで、うどんの質問が来た。「どこのうどんが一番うまいんですか」って。やっぱりなあ、何でみんなそっちに行くかなあ。うまいとこ、いっぱいありますよ。というより、うまいかどうかだけではないところが「讃岐うどん巡り」のおもしろさなんですけど。で、うまいかどうかではなく、今どの店に人がいっぱい来てるか、みたいなことで10数軒の名前を挙げたら、やっぱりこういう話が出るのである。「○○のうどんは最近、ちょっと味が落ちましたなあ」って。私は「そうですかー」とか答えておく。どこの店も毎日デキにばらつきはあるし、少しずつ味が変わるところもあるけど、味も雰囲気も自分の体調も景色も天気も全部含めて、私らたいてい許容範囲の中のばらつきなんですけど。ま、いろんな見方をする人がいていいんですけど(笑)。

 金曜日は久しぶりに都村さんと会って、長生塾のQ&Aの聞き取りをした。質問の一つは話題のライブドアとフジテレビの問題。目からウロコの明解解説を頂きました。数日後、長生塾のホームページにアップするので興味のある人はご覧下さい。
2005年3月23日(水)

 10日以上も開いたんか。21日(月)は東京で放送作家のねっくと高松出身のお笑いコンビ「シャカ」の大熊君(文化人講座の大ファン)と、突然合流したタウン情報全国ネット本部スタッフのO西一家(O西と母ちゃんとばあちゃん)と夜11時半までバカ話。おもろいネタをたくさん仕入れた。

 昨日の夜はアップタウンで牛乳屋さんから、
牛乳「“数学の問題を国語で解く男”の話やけどな、“数学の問題を体育で解く男”もおるで」
田尾「誰ですか、それ」
牛乳「暴力団」(爆笑)
牛乳「“借りたお金は確か5万円だったはずですが……そこから1万円ずつ3回払いましたので残りは……”とか言うたら“ごちゃごちゃ言わんんとさっさと100万出さんかい!”言うてボコボコにするみたいな(笑)」
という、なかなか展開力のある指摘を受けました。うまい。

 さて何週間か前、牛乳屋さんから「四国新聞に時々載っとる朝原とかいう映画監督のコラム、おもろいで」とかいう話を聞いたのであるが、今日、そのコラムを見つけて読んだら、この人、文章おもしろいわ! こら毎回読まなあかんと思っていたら、今日が最終回だって。

 声帯ポリープ手術後の経過は、なかなか良好です。声のかすれは全然なくなって、声を出すのが非常に楽。まだちょっと怖いので大きな声や高い声は出してないけど、授業が始まる頃には全開じゃ。けど再発したらいかんので、ちょっと慎重に。今日は大学で学科協議会と、久しぶりにカルチュラル・マネジメント学科の100人くらいの学生と再会して 来期の履修指導。教授3年目に入って、そろそろ、いろいろとおもろいことを実行に移す時が来たなあという感じです。「フィールド・プラクティカム」というゼミみたいな担当科目の私のチームのメンバー(学生)が決まったが、「寝坊」の珍獣阿部も田尾組に入ってきて、来期はこら笑わしまっせ(笑)。
2005年3月11日(金)

 朝、退院後の状況確認のために再び病院へ。執刀医である田邊のおじさん(この人が倉敷中央病院の先生に太鼓判で紹介された医者)が「じゃ、ちょっと見てみるか」と言って、例のあれだ。鼻の穴の奥を麻酔して、そこからファイバースコープみたいな先がビカーッと光るカメラを差し込んで、声帯のところまで差し込んで、涙ながらにオエオエ言いながら声帯の写真を撮られるというやつ。何とか写真を撮り終えて、手術前の写真と比べて見せられたら、見事にポリープがなくなっていた。ま、当たり前やけど。
田邊「どう、声はもう出してる?」
田尾「はい、昨日からおそるおそる」
矢島「あ、普通に出てるやん」
 と言ったところでハッと思い出した。ヘリウム声のギャグ、やり損ねたやんか!

 朝10時半頃、病院から帰りに歩いてメチャメチャ久しぶりに竹清に行ったら、まだ開いてなかった。ガラス越しに中を見たらおばちゃんが天ぷら揚げてたので手を振ったら窓を開けてくれて、ちょっとだけ立ち話をして、11時前にならないと店開かないと言うのでそのまま歩いて丸山へ行って、おばちゃんと世間話をしながら大とチクワ天とエビ天を食べて帰る。それから来期準備を中心にデスクワークをして、夕方、2週間ぶりに岩井志麻子さんや本庄さんやみんなと再会してテレビ。やっぱりちょっと声の出し方に違和感を感じながら、そのせいでちょっとキレの鈍ったコメントを垂れ流して番組を終えた。

 スタジオで休憩中に見るテレビは、今日はライブドアとニッポン放送の東京地裁判決ばっかり。私ら、カメ(亀渕昭信)&アンコー(斉藤安弘)の「オールナイトニッポン」を聴いてた世代だから、あん時の亀渕が社長になっていいのか(笑)と思ってたんだけど、今回の一連の騒動の中で、亀渕社長、ビジネスの勉強を全然してないのがバレちゃったなあ。カメちゃん、いつテレビで聴いても新聞で見ても論理の話に情緒でしか答えてなかったんで心配してたんだけど、ビジネスの原理原則の世界である判決に対して、「私ども役員、社員の気持ちが否定されて残念」って、この期に及んでまだ情緒でしかコメントできんのだもんなあ。それ、今回の問題にまるで関係のない話なんやけど。数学の問題に国語で答えてるよ、カメちゃん。

 ちなみに私もタウン誌の編集長やラジオのパーソナリティーをやってて社長になって、「数学の問題を国語で解く男」を自称していたけど、その間、幸運にも長生塾で都村さんに鍛えられたから、ちょっとだけ「原理原則」がわかって自分でものを考えられるようになりました。デキの悪い塾生やけど(笑)。
2005年3月10日(木)

 復帰第一声は昨日の上村さんに出したわけであるが、会話解禁は今日であるから、家族以外で公式発声第1号は電話でいきいきうどんの福田社長やがな。第2号は電話で牛乳屋さんやがな。第3号は電話でごんやがな。なーんか交友関係の狭さがわかりやすいなあ(笑)。ちなみに第4号は電話で学科助手の真鍋、第5号は大学の企画課のO塚さん、それから対面でごん、かすが町市場の大将の廣瀬さんにおばちゃん、GEOのカウンターの兄ちゃん……

ごん「あんた、行動まるわかりですな」
田尾「おまえ、声解禁初日にわざわざかすが町市場に中華そば食いに来てやったんぞ。しかもアキノブ(長男)まで連れて」
アキ「ま、来てあげたんやけどな」
ごん「お前が言うな! で、どうなんすか? 声の方は」
田尾「かすれは全然ないから、たぶん声は元に戻ったと思うんやけど、何かまだちょっと違和感があっての、ツッコミとかにキレが戻ってない」
ごん「それは手術のせいでないでしょ!」

 夜、アップタウンに行って、リハビリ代わりに1時間くらい、牛乳屋さんらと声を普段の6掛けぐらいに抑えて話した。明日はテレビ復帰やから、何とか90%くらいには回復しとかんとなあ。
2005年3月9日(水)

 思えば3月3日の午後3時30分頃から無言の丸6日間、いよいよ沈黙療法も今日が最後になったというのに、図書館を出た途端に上村さん(四国学院大学カルチュラル・マネジメント学科教授兼劇団銀河鉄道主宰)とバッタリ出会って、筆談用の紙も持ってないのに喫茶に行って、アイドリングと称しておそるおそる小さく声を出してみた。何か……ちょっと声が重い。蚊の鳴くような声を出してみただけなので、ちゃんと出したらちゃんと出るはずなんだけど、大丈夫かなあ。ヘリウム声のギャグ、やろうと思ってもできんのちゃうか? やや不安につき、今日は早めに寝る。ったって、もう午前1時前やけど。
2005年3月8日(火)

 昨晩、「沈黙療法」の真っ最中にちっちゃいホワイトボードと文字消し付きマーカーを持ってアップタウンに行ってマスターと姉ちゃんと牛乳屋さんを相手に3時間にわたって筆談バカ話を繰り広げてきたとは、主治医の矢島陽子先生(大阪弁のカッコイイ女医さん。きれいな文字を書く)も予測できなかったろう。ねえちゃんに「看護婦は今、看護士言うんで」と教えられて、筆談しに行った甲斐があったし。ちなみに今日の昼は、「かけ大 熱いの。」と書いた紙を持って清水屋に行って、無言でその紙を見せてうどん食ってきた。

 さて、聞くところによると、私の手術はまず口を大きく開けたところへちょっと太めの管をノドの奥の声帯のところまで差し込み、その管の中に手術用の何やら器具を通して顕微鏡で見ながらポリープを除去したのだそうである。その時、管が上の前歯と舌の奥を圧迫するので、ヘタしたら前歯が欠けたりするらしい。私は歯は丈夫なので何ともなかったが、麻酔が切れてきたら舌の奥が赤くなってしばらく痛んだ。かなり押さえ込まれてたみたいではある。しかし全身麻酔というのは見事やね。全く気がつかない。あのまま死んでても気がつかない。ま、死んだら気がつかんけど。

 で、手術明けの4日からは、ひたすら麻酔解除の点滴と、除去跡の傷の回復のための「沈黙」が続いたのである。看護士さんが来て点滴をセットして、「点滴終わったらナースコールで呼んでくださいね」と言って病室を出ていく。2時間ぐらいして点滴が終わったのでナースコールのボタンを押したら、看護士さんの声がした。
看護「どうなさいましたか?」
 いやいやいや、こっちしゃべれんがな! 私が黙ってると再び
看護「どうなさいましたか?」
田尾「…………」
看護「どうなさいましたか!」
 しばらくしてあわてて看護士が駆け込んできて……みたいなこともありながらとりあえず退院して本日、大学の会議にも無事出席してきました。

 さて、問題は明後日。第一声を、どこで誰にどう発するかじゃ。一応昨日牛乳屋さんらと画策したのは、まず病院で矢島先生のとこへ行って、先生が「ちょっと声を出してみてくれますか?」と言ったらわざとヘリウムガスを吸ったみたいな声を出して「コンナカンジデスケド!」とか言って先生をひっくり返らせるという作戦。何か、どつかれそうやけどな(笑)。
2005年3月7日(月)

 とりあえず無事であったので、中間報告である。
 実は3月3日から丸5日間、私は家族と顔を合わしているのに口もきいていないのである。とゆーか、じゃべれないんですけど。

 えー、2年前に発見された声帯のポリープがどうにも収まる様子がないため、ついに3月2日から入院して、3日に手術をして取っちゃいました。去年の秋頃にはマイクなしで講義してたらもう30分ぐらいでメチャメチャ声を出すのに力がいるようになってたので、この春休みにやるしかないと、去年の年末から段取りをしていたわけです。
 よって手術後、3月10日頃まで「沈黙療法」という、私にとっては拷問のような日々が続いているわけです。まだあと3日ぐらいしゃべれんのですが、明日、大学で定足数の関係でどうしても出席しないといけないらしい会議に無言で出席するため、どうせならと今日、退院したのである。だってノド以外、何ともないんだもん。午前11時に退院してすぐ、はりやで「天ぷらうどんの大」食ったもん。帰りに大将にうどんの「耳」をもらって帰って来たもん。

 さてそういうわけで昨年末、切る覚悟を決めて、耳鼻科では西日本有数の陣容であると教わった倉敷中央病院(すごくカッコイイ病院です)に2回も行った挙げ句、「入院するなら家(高松)の近くの方がいいでしょう。優秀な先生がいますから紹介状を書いてあげます」と言われて高松赤十字病院を紹介され、すぐさま行ったら「1カ月くらい様子を見て」と言われて、結局1月末まで決定を延ばされて、3月3日の手術が決まった。
 入院初日(手術の前日)はまず、看護婦さんにアンケートみたいなんを採られました。
看護「タバコは1日にどれくらい吸いますか?」
田尾「10本から15本ぐらい」
看護「お酒は?」
田尾「ほとんど飲みません」
看護「主食は主にどんなものを食べていますか? あ、うどんやね」
って、ちゃうわい! みたいなことがあって、続いては手術の同意書や麻酔の同意書に名前を書いてハンコを押すという作業が連続して、「今回の手術で切除された組織におもろいもんが見つかったら学会で使わしてもらいますけど、よろしおますか?」みたいなのにも同意して、初日は終了。

 翌3日は朝から飲まず食わずで、持ち込んだ本を読みながらひたすら待機。午後3時になって呼び出しが来て、いよいよ手術室に向かうことになった。病室で手術着に着替えて、看護婦さんについて、歩いて手術室に向かう。
看護「手術の内容は先生から聞きましたよね」
田尾「はい。何か口から太い管を声帯のとこまで入れてやるとか」
看護「麻酔の説明も聞きました?」
田尾「はい。何か全身麻酔して、気がついたら手術終わってるとか」
看護「……何か、すごく度胸がありますね。手術前なのに」
田尾「そうですか? 何か初めてでよくわからんので」

 とか言いながら、手術室に着いたのである。そこで案内役が交代。今度は看護婦か医者かわからんけど、白衣にマスクの女の人が2人。言われるままに着いて行くと、手術台に到着した。言われるままに手術台に上がって仰向けに寝ると、腕が固定され、胸や脇腹に心電図用の何かがペタペタと貼られ、「点滴をします」の声とともに左腕に針が刺され、「麻酔が入ります」の声を聞いたところまでは覚えている。

 気がついたら病室のベッドに移されるところであった。家内と長男がいたような気がする。医者と看護婦さんがいたような気がする。手術前と手術後の声帯の写真を見せられたような気がする。その日の夜は食事抜きで、寝た。(以下次号)
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