2006年01月の日記 |
2006年1月31日(火)
今週から後期の試験。今日は私の担当科目の試験がないので午前中は研究室等でデスクワークと雑務をやり、昼からは学生の中尾に頼まれて学科事務室で2時間半にもわたって文章のレクチャーをやった。そばで助手の真鍋が仕事をしながら私と中尾のやりとりをずーっと聞いていたが、私がその場で考えながら解説しながら文章を作っていくんやから、あれは勉強になったやろ。昼飯も食わずにレクチャーを終わった後、真鍋と3人で近くの喫茶「ゴッコ」に行って、スパゲティ・ナポリタンタマゴ入り大500円を中尾のおごりで食って帰る。
帰りの車の中で、数年にわたってお蔵入りしていたデクスター・ゴードンの自転車の写真のジャケットのCDをかける。思い起こせば10数年前、FM香川の番組でジャズのコーナーをやらないかんハメになってアップタウンに助けを求めたのが私とジャズの出会い。「ピアノトリオって、ピアノが3台ちゃうんですか!」という伝説の大ボケをかまして本番中にマスターを絶句させたという事件から数カ月後、そろそろ私もジャズのCDなるものを買ってみようと思ってアップタウンで相談したら、ねえちゃんが「私はこれが好き」と言うのでわけもわからないままエリック・ドルフィーの「ラストデイト」というCDを買ったのが、私の初めてのCDである。
その頃仕事で毎週のように徳島に行っていて、そこのジャズ屋に何度か通っていたらマスターと常連客がダベっているところに呼ばれて、
私「ジャズ、まだ初心者なんですけど」 客「何聞いてる?」 私「CDは1枚しか持ってないんですけど」 マス「何?」 私「エリック・ドルフィーいうやつ」 客「またえらいとこから入ったなあ(笑)」
という会話があって、私は何がえらいとこかわからないまま高松に帰ってアップタウンでその話をしたらまた笑われて。それから何かの時に店で好みのメロディーの曲がかかって、尋ねたらデクスター・ゴードンというおっちゃんの「ブラックオルフェ」という曲だって、とりあえず買いに行ったのが私のジャズCDの2枚目である。
それからいろんなのを聴いているうちに、キャノンボール・アダレイのサックスがかっこいいと感じ始め、コルトレーンのサックスがすごいことがわかり始め、フィル・ウッズのサックスにはまり、サックスをどんどん聴いているうちにデクスター・ゴードンのあのペーポーパーポーいうサックスが何となく物足りない音に思えてずーっとお蔵入りしていたのである。この頃になってやっと、ドルフィーが“えらいとこ”いうのがわかり始めまして(笑)。
で、今度はだんだんサックス以外の音が聞こえ始めて、トミー・フラナガンのピアノが好きになって、ウエス・モンゴメリーのギターに長い間はまって、ポール・チェンバースのベースがメチャメチャ気持ちよくなって、そんなこんなでデクスター・ゴードンと別れて10年以上経って久しぶりに今日聴いてみたのである。そしたら、何か、聴けるんやなあ(笑)。ジャズに限らず、昔は全然おもしろいと思わなかった曲が聴けるようになることがよくある。年月っちゅうのは、何というか、年月やなあ。
帰りにガソリンが少なくなったのでガソリンスタンドに入ったら、何と従業員がおじいさんばっかりのスタンド! 給油中にふと建物のガラス窓を見たら、そこに貼ってある手書きのポップに大きく「水技き剤」と書いてある。「水抜き」やがな! と思ったらその下に「これで安心! ルソルソ気分!」って(笑)。満タンになって窓も拭いてもらって、ルソルソ気分で帰りました。絶対次もあそこに行くぞ(笑)。
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2006年1月29日(日)
朝、追われている原稿や企画ものの構想を練るためもあって、ここんとこ忙しくてちょっとお休みしてたウォーキングに出かける。何か、歩きながら考えてると構想がまとまったりするもんで。今日はいつもとコースを変えて栗林トンネルの近くのハイキングコースから頂上の古墳まで上がって、そこから展望台まで行って下りて帰るという2時間15分コースを歩いてきた。去年の12月から峰山へは10数回上がったのだが、ここんとこ数カ月、あの世相じいさんにただの1回も会わんのだ。何かあったのかじいさん。冬は寒いけん歩いてないのか?
夜6時に久しぶりにふみや(お好み焼き屋)に行ったんですけど、駐車場に車を止めてトキ新に歩いて入っていったら、通りに客がほとんどいない。途中のステーキ屋、客ゼロ。居酒屋、外から見える限り客ゼロ。ラーメン屋、客ゼロ。ホルモン屋、客ゼロ。ふみや、客いっぱい(笑)。
店に入っておっちゃんに「痩せたんちゃうんな」言われて、ちょっとやりとりしてお好み焼きを食べている間にもお客さんは次々に入ってくるし持ち帰りの注文も入るし、で、食べてすんで外に出たら、あれー? やっぱり通りにはほとんど人が歩いてない。歩きながら他の店を見ても、やっぱり入ってない。安いメシ屋みたいなところにだけ数人入っている。みんなどこ行っとんやろ。家でサザエさん見よんかなあ(絶対違うと思うけど)。高松の中心街のトキ新の日曜日の夜6時から7時頃、そういうことみたいです。
今日はずーっと引っぱってた原稿を1本上げて、油断して早めに寝る。いうても日付がもう変わったけど。
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2006年1月27日(金)
後期最後の授業を終え、取材を1件受けてKSBスーパーJチャンネルへ。私は新聞もテレビもニュースはあまり見ないのだが、金曜日はテレビに出ている時に流れるので確実に目と耳に入ってくる。今日は香川県の県立高校の通学校区の「全県一区制」案が保留になったというニュースが流れていた。大ざっぱに言うと、今、香川県は通学校区が二つに分かれていて、西の子は東の県立高校に行けない、東の子は西の県立高校に行けないとなっているが、選択肢を増やそうということでこの通学校区をなくしたらどうかという案が教育委員会で出てきたのだが、保護者などから「高校間の格差が広がる」「遠距離通学を強いられる生徒や保護者の負担が増える」という反対意見が出て、その声を重視した議会が「全県一区制」案を否決したというもの。
これ、シンプルに読めば「遠距離通学」は保護者と生徒が自由に選択できるのだから、「強いられる」というのは変ですね。イヤなら近いところへ行けばいいわけですから。「高校間格差が広がる」というのは、要するに「高校は格差がない方がいい」という意見ですね。保護者や議会は「あんまり優秀な生徒ばかりいる高校を作ってはいけない」という意見になりますが、これ、私には理由がわからん。
ここから読めるのは何やろ? 保護者は、全県一区制になったら自分の子どもを行かせたい高校によそから生徒が受けに来るから受かりにくくなってイヤだ、ということなんですかね。議会は、票が欲しいから保護者側に乗っかったんですかね。教育委員会は、全県一区制案を出した本当の理由は何なんですかね。何かよくわからん。
もう一件、無認可の幼児園で園長に虐待されて子供が亡くなった事件の裁判の二審で、「県は事件を予見できたから園長と連帯で両親に6400万円を払え。しかし司法解剖で“乳幼児突然死症候群の疑い”と診断して警察の捜査を遅らせたと訴えられた医師は無罪」とされ、これに対し県は控訴も視野に入れて協議しているいうニュース。このニュースには「控訴を断念すべきだ」という両親や取材陣に詰め寄られながらエレベーターで去っていく知事の映像が流され、明らかに県が悪者にされておりましたなあ。
ニュースの後、こっちにコメントを振られたけど、こういうの私に振ったらいかんがな(笑)。ご両親は全くお気の毒としか言いようがない。けど私はそういう情緒でコメントできないタイプなので、どういう判決が出たらどういうことが起こるのかを考えてしまうのである。例えば責任と権限の関係。予見というところに責任を負わせると、責任者には極端に言えば立ち入り検査に警察権に匹敵する権限を与えないといけない。結果、行政が勇み足で営業停止処分を出したとしてもある程度容認しなければならないこともある。さらに「二度とこういう事件を起こしてはならない」などという責任を求めると、これまた極端に言えば「すべての施設に毎日フルタイム、監視の職員を張り付きでつける」ということまで認める必要がある。その経費は他の予算を削ってもつけることを認めないといけない。
極論だと言われるだろうが、要するに行政に責任を持たせるということは、県民は全員、そういう権限がセットになるのだという覚悟を持たないといけないと思うのである。強い権限は与えない、しかしことが起こったら責任を負わせる、というのは、都村さんの言い回しを借りれば「手足を縛って“泳げ”と言っているようなもの」なのである。
それは、今、世間が学校の先生に迫っているものとよく似ている。親と同じ権限を持たせていないのに「社会的な躾ができてない」という責任を先生に負わせる。警察と同じ権限を持たせてないのに、生徒が事件を起こすと先生の責任を追及する。もちろん、行政も先生もやるべきことをやっていないという責められるべき事実はたくさんあると思うが、「責任と権限はセットである」という論理的な大原則のところを無視して情緒的に迫るという風潮は、私にはちょっとイヤなのである。
とりあえず、情緒ではなく論理の部分で、私はこの「予見できたかどうか」という非常にグレーな部分について、今後のために最高裁の判断も見てみたい気がするのである。
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2006年1月26日(木)
昨日は四国瀬戸内観光論の最終講義。70点。10数回の講義の構成は、四国と瀬戸内海沿岸の観光素材のポテンシャルを客観的に測りながら、最後に「四国の観光の中期的プロモーション企画」というテーマで模擬企画会議をやったのだが、ちょっと画期的なプランが生み出されました。あまりに視点がおもしろいので最後に学生みんなに「この企画、今から何カ月かかけてほんまに企画書に仕上げて発表するから、それまでこのメンバー以外には秘密にしとけ」言うて、有志6〜7人でプロジェクトチームを結成することにした。最後の企画会議は成果として90点あるけど、途中ちょっとダレたので総合評価で70点。
本日はアイデア開発論の最終講義。これはかなり完成度が高く、学生たちの感想レポートも目からウロコの絶賛だったので95点じゃ(残りの5点は消費税)。悪いけどたぶん、受講した学生の大半が東大生よりアイデアを生み出す力がついたと思っています。ま、このプログラムは私のオリジナルで、おそらく全国の先生と呼ばれる人の誰もやってないと思うからな。
あと、ワークショップとプラクティカム3つとカルチュラル・マネジメント概論も後期のプログラムを終えて、残るは明日の分だけ。ふー。
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2006年1月25日(水)
今週は後期最後の授業の週で、火曜日は観光開発論と人材活用論の最終回を終えた。学生の感想では観光開発論はなかなか刺激的な授業だったそうだが、私の自己採点では少しデータ不足だったため60点。原因は、絶対調べたいテーマがあったのに夏休みに取材旅行に行けなかったことである。
一方、人材活用論は2年目の講義でかなり充実して80点。人材活用の大前提として基本的な組織論(論と言うほどたいそうなものではないが、要するに会社のマネジメントの実践的手法)を厚めにやったのだが、「授業の感想」と「印象に残った内容とそれに対する自分の考え」というレポートを全員に書いてもらったら、サークル活動をやっている多くの学生から「自分たちの活動がうまくいかない原因がわかった」みたいな感想がバラバラと返ってきた。
組織というのはそれがサークルであれ企業であれ、あるいは家庭であれ社会であれ、まず目的がある。目的が複数ある場合は、局面ごとに目的に優先順位がつけられる。そして、個人は目的のある組織に所属したら、その中においては「組織の目的を達成すること」が最優先である。当たり前の話だ。ではその中で「個人の信念」というのはどういう位置にあるのか。そんなのは考えるまでもない。「組織の目的」より「個人の信念」を優先させると、組織は崩壊するのである。
レポートを見ると、学生たちはどこで誰に教わってきたのか洗脳されてきたのか、この授業を受けるまで、いついかなる場合も「個人の信念」は最も大事なもので何ものにも優先すると思っていたようなのである。感想では、「自分たちのサークルでは目的すら掲げていなかった」「個人の信念や好き嫌いに振り回されてしょっちゅう問題が起こっていたことがわかった」といった内容のものがいくつもあった。
もちろん個人の信念は組織の中で抹殺されるものではないが、優先順位の原則の話である。「それでも私は個人の信念を優先する」という人は、悪いけど目的のある組織に所属しちゃいけません。自分の信念に合致する組織に移るか、自分一人でやるか、それがたぶんお互いにハッピーになる唯一の道だと思います。こんなのは民間企業でマネジメントをやってみればすぐわかる、組織の中の人材活用の大前提、大原則ですよ。
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2006年1月24日(火)
もう新聞に出たから追悼の意味も込めて名前を書くが、岡村と北の葬式が開けて今日朝一番の授業は、彼らと同期の一期生(3年生)だけを対象にした観光開発論。私は授業の前に黙祷をすることにした。30秒、目をつむっている間にまた悲しみと悔しさがこみ上げてきて、黙祷開けに「君らはまだ若いから…」と言ったまま、私は教壇で、涙で声を詰まらせてしまった。
「君らはまだ若いから、昨日まで一緒にいた人が死ぬということは初めてかもしれんけど、俺はもう50になるから、友達や、知人や、身内が死ぬという目に何回も遭ってきて、けどつらいけど自分の日常は続くから、気持ちの整理をつけないかん。そういうことを、今まで何回もやってきて、ここへ来てやっと、自分なりの気持ちの整理の仕方が、つまり俺はこういうふうに考えたら一番整理がつくという考え方がやっと自分の中で見つかって、それは、あいつらはちょっと早よ向こうに行って、向こうでおるんやと。そのうち俺も向こうに行って、行ったらあいつらが、ま、言うてみたら向こうの先輩としておるんやと。俺が向こうに行くのは30年後か20年後か、来年か明日かもわからんけど、まあ何億年か何十億年か知らんけど地球の年齢で考えたら、一緒に向こうに行くようなもんで、お前ら先に向こうで何かしよれや、と。俺はまだこっちでなんかせないかんからしよるけど、お前らとりあえず向こうで何かしよれと。そうやって俺は整理をつけとるわけで……」
みたいな話を、途切れ途切れに、何か自分に言い聞かせるみたいに話をして、とりあえず自分の中では整理をつけた。もうこの話は終わりじゃ。今日は授業が3本にミーティングが3つにデスクワークで夜11時半頃帰宅じゃ。明日は授業2本と会議が2つと打ち合わせが1つ。その他に待たせている緊急の書き物が3つ、抱えているやや緊急の仕事と作業が、数えられんぐらいある。先週、山を一つ越えたと思ったら、先週超えたのは飯野山で、今、ヒマラヤを登山中。
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2006年1月22日(日)
嵐のように忙しい先週が終わって昨日は夜0時半頃家に帰って2時前までデスクワークをして、息つく暇もなく今日は朝から仕事を一つこなして、それから打ち合わせで待ち合わせ場所に行って会場に入ろうとしたその時、学生の阿Bから電話がかかってきたのである。
阿B「田尾さん、聞いてますか?」 田尾「何や?」 阿B「OとK(うちの学科の学生)の事故ですけど」 田尾「事故したんか!」 阿B「死にました」 田尾「何やて!」
うちの学科の一期生、3年間のつきあいで私の授業も履修している2人が、交通事故で一度に他界した。伊藤先生に連絡したら、すでにあちこちに連絡して対処をしている最中で、私にも連絡をくれるところだった。私は打ち合わせの仕事を終えて一旦帰宅して、上村さんに電話をした。すでに連絡を受けていた上村さんはショックを受けて、声を詰まらせていた。私は電話をしながら、泣いた。
お前らなあ…、お前ら……くそーーーーー!!!
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2006年1月18日(水)
かつて情報誌の編集をやっていた頃は徹夜なんぞ日常のことで、創刊以来15年くらいは毎月徹夜があったのであるが、徹夜からほぼ解放されて10年近く、まさかこの期に及んで1週間に2回も徹夜することになろうとは。土曜日の夜から日曜日の朝にかけては太田と松村のせいで徹夜状態になったのだが、続いて昨日の夜は学生の発表行事の準備でつきっきりで指導をしていたら知らない間に深夜0時を回っていて、
星野O「田尾先生、今日は帰るんですか?」 田尾「当たり前じゃ。何としても2時か3時頃には終わらせて帰る」 星野O「あの、駐車場閉まってますよ」 田尾「え?」 星野O「12時過ぎたらゲートが閉まって、朝6時頃にならんと開きませんよ」 田尾「何とかおい!」
でも結局駐車場に関係なく、何とか作業に片が付いたのが朝の7時半。帰って泥のように2時間だけ寝て、起きて風呂入ってメシ食って大学にとんぼ返り。今日はまた夜11時まで学生の作業に付き合って、家に帰ったら0時が近づいていた。とりあえず、意識はしっかりしています。私の座右の銘の一つは「若いうちの苦労は年とってこたえる」であるが、若いうちの徹夜経験が役に立った…わけではないか。
このクソ忙しいのにごんが「仕事に疲れたらこれでも見てください」いうて怪しいサイトのアドレスを送ってきた。あんまりおもろいので学生に教えたら夜の準備作業中にあちこちでしょっちゅう
O西「中村屋!」 池D「中村屋!」 S崎「中村屋〜」 阿B「カイ屋! カイ屋、カイ屋」 田尾「うるさい!」
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2006年1月13日(金)
昨日の晩、家でご飯を食べていたら奥歯の内側が欠けて、切り立った崖みたいになったのである。その断面に、しゃべったりものを食べたりするたびに舌の奥の横が当たって、痛い痛いと思っていたらそのうち舌の奥の歯に当たる部分が切れたのである。水を飲むだけでもそのわずかな舌の動きが切り立った歯の角に当たって痛い。どうしようもなくなって、舌の奥と歯の間に脱脂綿をはさんで寝たら、朝起きたら知らない間に脱脂綿を飲み込んでいて、とにかくしゃべるのもままならないまま、朝飯も食わずに朝一番に大学に行って、学生に「歯が欠けて舌が切れて痛いからあんまりしゃべらんぞ」と言いながら、血が出るほどしゃべって2科目を終えて、歯医者に行くことにした。
高松の行きつけの松崎先生の所へ行って見てもらったら、
松崎「虫歯やな」 田尾「ああ」 松崎「たぶんこれ、小学生の頃にした詰め物の下が虫歯になって欠けたんやね」 田尾「ああ」 松崎「だいぶ欠けてるからかなり削ってまるごとかぶせた方がええね」 田尾「ああ」
口開けたままやから「ああ」しか言えんまま、麻酔をして歯を削ることになって、歯の型をとって、型ができるまで1週間ぐらいの間の応急処置で銀色のかぶせものみたいなんをしてもらっている時に、ハッと気がついた。今日、5時前からKSBスーパーJチャンネルの生放送やがな!
麻酔のせいで口の右半分と舌の感覚がない! 歯医者のコップで口をすすぐ時も感覚がないから、水が口からダダこぼれ状態!
田尾「松崎先生、これ、麻酔、いつまで効いとんですか」 松崎「そうやねえ、3時間ぐらいかな。あ、田尾さん今日テレビやったね」 田尾「5時前から7時まで」 松崎「麻酔したのが2時半頃やから、番組始まってしばらくしたら取れてくるよ」
うわっちゃー! ギリギリセーフか? アウトか?
午後3時半頃、歯医者を解放された私はとりあえず家に帰った。指で口の周りを突いてみたが、あかん、感覚がない。しゃべりも舌が変なので発音が変だ。けど、こうなったら麻酔が取れるのを待つしかないがな。腹をくくったら腹が減ってきたので、私は家にあったどん兵衛を作って食べたら、麻酔のせいで全然熱ないがな! こらズルズル食える! というメリットを発見したが、そのかわり味が全然わからん。デメリットの方がデカイがな。
4時45分、KSB入り。ちょっとしゃべってみたが、ダメだ。発音がおかしい。私はキャスターの中村君と本庄さんと岩井さんに「麻酔が切れてないから最初のうちはあんまり振らんといてくれ」と言った。
田尾「特にラ行とダ行の発音が変やから、それが含まれそうなコメントはできん」 中村「わかりませんがな!」
4時50分、番組スタート。私は最初のあいさつで「麻酔が切れてないから発音が変です」言うて、5時台は苦しみながらいつもよりゆっくりと変な発音でしゃべって、6時台に入るとだんだん回復してきて、何とか番組を終えた。けど、しびれは取れたけど今度は切れた舌の奥が痛み出して、全然いかん。声帯ポリープの手術以来のしばらくしゃべり安静じゃ。
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2006年1月11日(月)
8日(日)は昼から本広監督やROBOTのスタッフやフジテレビの方と私と麺通団知将A藤が集まって、5時間にわたって映画「UDON」のミーティング。爆笑ネタから真剣なマーケティングディスカッションまで、充実した時間を過ごしたが、どこまでヒミツかわからんので内容は全部ヒミツだ。
で、昨日9日(月)は、ものすごく忙しいのに太田(浩介)が東京から帰ってきてて(私が忙しくて、太田は忙しくない)、約束してたからしゃーない、知将A藤とツル村と4人でゴルフに行くハメになったのである。強気のツル村の提案で全ホール各選手200ポイント(怪しい単位)出しのスキンズマッチで、スコアはボロボロなのに3ホールキャリーオーバーの1200ポイントがかかったホールを2回とも私がゲットするという勝負強さを発揮して大勝じゃ(笑)。キャディーさんも私と太田がいるのだから腹筋つるほど笑わせて、「いやー、おもろかった」で夕方解散…といかないのがこのメンバーなのよね。
強気のツル村の提案で、麻雀になだれ込むことになったのである。もうサイテー(笑)。私は仕事を抱えているのでできれば抜けたいと思って、「太田は年に1回か2回しか帰ってこないので旧交を温めないかんやろ」という大義名分で、猿人Jとごんに集合をかけた。
田尾「そういうわけでよろしくね」 ごん「私は今日、仕事ですよ!」 田尾「仕事終わってから来たらええが。それまで俺がつないどくから」 ごん「いや…あ、ちょっと今日はマンションのガス管が破裂して…」 田尾「そのネタ、おもろない」 ごん「ほなまあ、行けたら行きます」
「行けたら行きます」言うやつはたいてい来ん。結局猿人Jが加わることになって4人になったが、私はパソコンを持ち込んで4人で3人打ちをしながら抜け番の時に原稿と授業準備をしながら、けど頭の中は95%原稿に行ってて(残りの5%は消費税)、麻雀はほとんど並べるだけのノーガード戦法になってボロ負けしたがな。けど、雀荘で授業準備は完了して原稿も半分ぐらい書いた…というか、何やってんだか(笑)。
そういうわけで本日は朝一から授業2本に来客3人、原稿1本を上げるという猛スケジュールをこなしたけど、これぐらいではビクともせんなあ。私がじゃなくてスケジュールが。
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2006年1月7日(土)
ものすごく仕事を抱え込んだまま、打ち合わせで今日は福岡行き。道中どうしても仕事を一つ終えないといけないので、自由席では仕事ができんと思って950円払って岡山までのマリンライナーのグリーン席券を買って、席についてパソコンを開いたのである。そしたら何か人が結構乗ってきて、あろうことか私の真後ろの席に座ったおばさんなのかおねえさんなのかわからん女の人2人が、何か袋をガサガサ言わし始めたかと思ったらバリバリ!という袋を破る音とともに、明らかに「おにぎりせんべい」のニオイを振りまきながら、バリボリバリボリバリボリ(あと、コピー、ペーストで50回ぐらい足しといてね)と食べ始めたのである。坂出までずーっと。途中、何回もガッサガッサガッサと袋を揺らして中のせんべいを撹拌して。大きい固まりを上に持ってこようったって、おにぎりせんべいがそんなに砕けとんか!
ま、ええけど。で、昼から福岡で打ち合わせをして16:00過ぎの新幹線で高松に帰ってそのまま19:30に遊ゼミに行って、住職の坂田さんと四国新聞の戸城さんと人形師の後藤さんとちょっと話して18:30にこそっと抜け出そうとしたら座長の明石さんに見つかって、
明石「こら、田尾、何帰りよんや」 田尾「ちょっと仕事が混んでて…。ええやないですか、今日よっけ来とるし」
言うて抜けて帰って午前2時頃まで家で仕事して寝た。10日から授業再開やいうのに山ほど準備物を抱えとる。にもかかわらず、明日も明後日も用事がびっしり入っとる。「創刊以来最大の忙しさ」更新中じゃ。あの、20年以上前のタウン情報かがわ創刊以来、「創刊以来最大の忙しさ」を100回ぐらい使い続けてるんですが(笑)。学習せんのー。
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2006年1月5日(木)
昨日の夜は東京麺通団の新年会で、いつもなら時間がもったいないので飛行機で行くのだが、油断してて1週間ぐらい前に予約しようとしたら満杯。こらJRも危ないかもしれんと思って急いで空席を検索したら、のぞみのグリーン車しか空いてなかった。ま、ゆっくり仕事でもしながらと思ってパソコン開けて構想を練りながら、新神戸を過ぎてそろそろ書き始めるか…と思ったとたん、新大阪から弁当持ったおばちゃん軍団が乗り込んできて、幕の内のニオイはするわ寿司のニオイはするわアナゴのニオイはするわおばちゃんはしゃべり倒すわ。
原稿書けん。「名古屋で降りて万博跡地でも見に行ってくれ…」と願ってたのに降りる気配なし。「富士山見に行けー」と思ってたら駅も通過。結局おばちゃん軍団、終点東京までしゃべり倒してた。降りる時に見たら、軍団の中に足はそんなに太くないのに胴体が巨漢のおばちゃんが2人。意味もなく大晦日にボビーと対戦してた曙が思い浮かんだ。あれ、どっかで見た体型やなあ…とずっと思っていたが、ハッと気づいた。鉄人28号や。
さて、東京麺通団は今年は大晦日から正月休みなしで営業してたので、4日は15:00で店を閉めて大掃除を入れて、18:00から新年会。おっさん組は私と福田社長と勝谷さん、店組は店長の山中、パロマスを始め、社員もアルバイトもみんな集合して、労をねぎらったり訓示を垂れたり短中期計画の話をしたり、非常に有意義な時間を過ごしました。社員もバイトもみんなええコミュニケーションでようがんばっとる。工業製品型セルフでなくてうちは職人型のセルフだから店ではその日の担当によって少しずつテイストの違う麺が出るが、それが東京麺通団の一つの“味”ということで、向上心を持ってまじめにやっとりますんで、みなさん今年もごひいきにしてやってください。
新年会の後は二次会にも行かずホテルに帰って仕事。夜2時頃寝て、朝6時に起きて6時半にホテルを出て8時10分の飛行機で高松に帰って来た。空港に降りたら、車がない! あ、行きは新幹線やったんや。仕方なく高松駅行きのバスに乗って、市内に入って「次は栗林公園前」とアナウンスがあった時に「あ、ここで降りたら歩いて松下うどんに行けるが…」と思ったが、ちょっと躊躇してたらバスが発車。 「次は中新町です」 あ、これ降りたら歩いて竹清に行ける…いや、竹清10時半からやったような…けど歩いて行ってたら店開くかも…と思ってたらまたバスが発車。 「次は中央公園前です」 えーと、これ降りたらさか枝や。2回も躊躇したこともあって今度はちゃんとバスを降りて、歩いてさか枝に行ってうどん食って、そこからまた歩いて家に帰ろうとして、うどんの後はコーヒーやろが、ということで帰り道の途中で佐伯の家の前を通りかかったので突然行って「茶ー飲ませー」言おうかと思ったけど新婚やから勘弁してやるか、と思い直して、その50メートルくらい先にあるかつてのタウン情報のスタッフがやっている編集プロダクションに行ってコーヒーを強要して、1時間ぐらいバカ話して昼前に家に帰った。
ふー、うどんの原稿が進まん。メールチェックしたら佐伯からうどん原稿の催促っぽいメールが来てた。こんなことなら家に乱入しとったらよかった(笑)。すまんけど、今日はもう寝る。
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2006年1月1日(日)
12月28日の夜に家に帰ってきてたのであるが、帰ったら子供2人が帰省してきていたのでそのまま家族で中華料理を食べに行って、そのままアップタウンになだれ込んで、夜遅く帰宅して疲れてそのまま寝て、翌29日の午前中にご隠居都村さんと会って「長生塾」のホームページのQ&Aの聞き取り会。約2時間にわたって「構造計算書偽装問題」と「中国問題」について目からウロコが落ちるような解説を聞かせて頂いたら、都村さんから「年内に仕上げますか」と言われて、私はそれから今日(1月1日)の昼まで丸三日、苦しみに苦しみながらテープ起こしと原稿整理をやっていたのである。年内にできてないやん。
その間、12月30日の夜だけ外出して、讃岐家最後の日にうどんを食べに行った。夕方、団員S原がお歳暮持ってうちに来るというので讃岐家に連行。久しぶりにイナリズシ上原から「自分で会社始めました」という連絡があったのでこれも讃岐家集合を命じて、ごんにも集合をかけて、これまた久しぶりに猿人Jにも連絡をしたら「仕事で遅くなるけど嫁さん連れて遅れて行きます」言うので、午後6時半、讃岐家の2階に集合したのである。
いろんな人がいっぱい来ました。別府君も来ました。アップタウンの師匠も来ました。わーわー言いながら2時間ぐらい、うどんもおでんもおにぎりもいなりも食って、なんぼにも猿人Jが来んのであまり場所を占領したらいかんと思って出ることにして、大将にあいさつして連絡先の交換をして店を出たら、猿人J君到着。
田尾「俺ら、今からアップタウンでバカ話しよるけん」 猿人「わっかりました。ほな僕ら、うどん食べてから行きますわ」
とか言っていたら、大将が店ののれんを外し始めた。
猿人「あ! ちょっと待って。今から食べるけん」 大将「ごめん、今麺が終わったんや」 猿人「なんとですか!」
猿人J君、讃岐家最後の日に自分の直前で麺が終了した男です(笑)。相変わらずおいしいとこ持って行くのー。何はともあれ、大将、お疲れさんでした。この15年来の讃岐うどんブームの中で、「讃岐家」の名は私らの中で消えることはありません。
さて今日は昼過ぎに都村さんの第一次原稿をやっとのことで上げてFAXで送った後、なまりになまった体を起こしてビークォーター飲んで峰山に向かったら、石清尾八幡がえらい人でにぎわっとる。露店まで出とる。何事かと思ったら、初詣客やがな。今日が元旦やいうの、忘れとった。人混みを抜けて1時間かけて山頂の展望台まで行って、また1時間近くかけて下りてきた。
帰ったら太田浩介から電話。数日後に帰省するからゴルフ行こうって。日程調整したら1月中旬の1日だけしか空いてない。とりあえずその日ということであと2人のメンバーを集めにかかったが、俺、ゴルフに行く仲間、ほとんどおらんがな。とりあえず太田の希望で猿人Jに電話したら、仕事で行けんと。仕方なくゴルフがヘタで行きたがらないのはわかっていながらごんに電話をした。これまで「友達の結婚式」、「身内の不幸」という常套の断り文句を何度も使って、去年はついに「部屋の水道管が破裂して…」という新ネタまで繰り出したごんが今年は何を編み出すかと思ったら、
ごん「あ、たぶんその日、腹が痛い…」
新年の出だし、微妙やのー(笑)。
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