2008年06月の日記 |
2008年6月29日(日)
金曜日の「KSBスーパーJチャンネル」でお天気の清水さんが「日曜日は雨」と言ったので「これは晴れるかもしれんぞ(笑)」と思っていたら、ほんまに昨晩の雨が上がっていたので7時半頃から峰山に登ってきました。今日の景色はなかなかすごかった。霧ですよ。それも地上から200mくらいの高さのところに霧が横たわって、見渡す山や瀬戸内海の島が上の方だけ霧の上に出て、「雲海」のようです。峰山山上の桜並木の休憩所から向こうの展望台側を見たら、霧の上に鉄塔の先だけが2本浮かんでいて、まるでスターウォーズに出てくる空中都市のような光景です。思わず写真を撮ろうと思って携帯を出したら、こないだ換えたばっかりで使い方がわからんで断念(泣)。恐るべし、私のメカの対応力。
今日は一日、家にこもって仕事をしていました。夕方テレビをつけたら、燃料高騰の煽りを受けて回転寿司からマグロが消えつつある…みたいな特集をやっていた。私はあんまりニュースを見ないので詳しくは知らないのだが、番組によると燃料高騰で苦しくなった漁師が、誰に対する何の抗議か知らないけど全国一斉に休漁したそうですね。私は一瞬、「政府は補助金などで支援するより、暫定税率をなくしたらすぐ値段下がるやん」と思ったが、確か漁業の燃料には税金が乗っかってないんだったっけ。ガソリンや軽油や重油には税金が乗っかっている上に例の暫定税率がさらに乗っかってえらい高くなってるけど、農業と漁業は税金の乗っかってない燃料油を買えるとかいう優遇措置で来てるらしいので、皮肉にも税金措置で救えないじゃないの。
ということは、税金の乗っかっているガソリンや軽油を使っている産業(めちゃめちゃ多い)が苦しんでいる今こそ、政府は暫定税率どころかガソリンや軽油に掛けている税金を「取っ払うか軽減する」というのが一番簡単で有効な「経済活性化策」じゃないんですか? そう考えると、やっぱり前に言った通り「税金は経済活性化を阻害する」と思う。ガソリンや軽油の暫定税率の復活は「経済活動を阻害しても道路を作る」というわけのわからない話になるような気がして仕方がないんですが。んー、議員の人ら、何考えてんだか。目先のことばっかりでなく、一度根本的な原理原則に帰った方がいいんじゃないですか?
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2008年6月28日(土)
去年の秋頃からボルボ13号の体調があまりよくなくて、2カ月に1回ぐらいのペースで走行中に突然エンジンがストトト…と止まるという症状を見せていたのだが、ここに来てそのインターバルがだんだん短くなって、先月あたりは近藤先生を乗せるたびに止まるというのが3回も続いて、ついに木曜日には1日に3回も止まったのである。15年目、走行距離15万キロ。
ボルボ仲間だったKSBの後藤さんに言ったら「それぐらいではまだまだ壊れることはないで」と言われたのだが、さすがに1日3回はいかん。大修理に出すか、もう買い換えるか…と悩みながら昼前に家内の車に乗って一緒にボルボカーズ高松に行って、担当の国村さんに症状を話しながら新車のカタログを見たり中古車を見たりしていたら、国村さんが試乗用の新車を出してきて「これ、ちょっと走ってきたらええ」と言った。試乗はええけど、ボルボの新車は高すぎるがな。しかも最近のボルボは“オールドボルボファン”にはどうも形が世間一般に迎合しすぎてる感があって、今ひとつ思い入れられない。
私が今乗っているのは14年前に買った850のサルーンです。あの850のワゴンタイプのエステートがバカ売れした時に一緒に出たあまり人気のなかった4ドアのサルーンで、私はその人気のなさであまり街中で走っているのを見かけないというのが気に入って、さらにナンバーが自由に取れなかった時代の「13番」ということもあって「もう壊れるまでこれでええ」言うて国村さんをがっかりさせていた(笑)のである。
田尾「最近のボルボは形がなあ…」 国村「(カタログをたくさん出してきて)これなんかいいんじゃない?」 田尾「うーん…何か丸いし、軽さがないし…高い」 国村「じゃ、これは?」 田尾「めちゃめちゃ高いがな。そうや、850の新車はもうないん?」 国村「15年前に出た型の新車はないなあ(笑)」
あるわけない…とは思ったが、ふと気になって突っ込んでいく私。
田尾「あれ、850が出た後、新しいシリーズが出たら850の売れ残ったやつはどうなるん? 世界中で1台も余ってないいうことないやろ。どっかに売れ残った850の新車が山積みになっとんちゃうん?」 国村「いや、基本的には売り切るんですけどね」
何やら煮え切らない回答ではあったが、まあ、ないやろなあ。まだちょっとだけ「どっかにあるはずや」と思ってるけど(笑)。国村さんが、また違うカタログを出してきた。
国村「じゃあこれは?」 田尾「うーん…まあどれかと言われれば比較的これかもしれんけど…。これで今のと同じ色、ある?」 国村「いや、これは違う色しかない」 田尾「何で? 色の種類が減ったん?」 国村「いや、実はこのタイプ、正直なところあんまり人気がなかったからこの3色しか入ってきてないんですよ…」 田尾「人気ないん!」 国村「あの、“人気がない”いうんに食いつくお客さんもあんまりおらんで(笑)。とりあえず乗ってみます? ちょっとそこら辺走ってきてええから」 田尾「それに乗ってメシ食いに行ってきてええ?」 国村「かまんかまん」
というわけで、出してくれたボルボの試乗用の新車に乗って、家内と国分寺の喫茶シカに行ってきた。家内も一緒にカタログを見ていて、私と同じくどうも気に入った形の車がないと思っていたのだが、とりあえず食事を済ませて、今の車を修理に出して乗り続けるかなあ…、中古にするかなあ…、違うメーカーで探すかなあ…とか迷いながら車に乗り込んで発進しようとした時、家内が駐車場に割とカッコイイ車が止まっているのを見つけたのである。
家内「あんなんでもええんちゃうん?」 田尾「ん? そやな、あんなんでもええかもしれんけど…」 家内「どこの車やろ。ちょっと見てこよか」 田尾「まあそこまでせんでええやん」 家内「だってせっかくそこにあるんやけん。ちょっとあの横に行ってみて」
私は車を動かしてその車の横に行った。フロントを見たがマークらしき物がよくわからん。
家内「ちょっと降りて見てくるわ」
家内が車を降りて歩いてその車に近づいて行った。前を見てもよくわからんらしく、後ろに回りながら言った。
家内「何か“J”が見える…J…A…」 田尾「何や、農協の車か?」
と言った途端、家内が目を丸くして走って帰ってきた!
家内「ひええー! ジャガーや!(笑)」 田尾「農協の車って、ジャガー様に何てことを!(笑)」 家内「中古のマンションが買えるわ!」
ジャガーのエンブレムが付いてなかったけんわからんかった。そらかっこええわ(笑)。それからしばらく、思い出し笑いしながらボルボカーズ高松に帰った。「あんなんでもええんちゃうん」って、よう言うたわ(笑)。
結局とりあえずしばらく私は家内の車に乗って学校に行くことにして、「エンスト850」は金曜日に家内が乗ったらエンストしなかったので、私の乗り方が悪かったのかもしれないということで家に置いておいて、家内がたまに乗ることにして、それで今度止まったら引導を渡すことにする、という案も浮上したが、さて、どうしたものか。
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2008年6月25日(水)
四国学院大学はキリスト教主義の大学であるから、校内にチャペルがあって、授業の1時間目と2時間目の間に20分くらいの時間を取って毎日「チャペルアワー」として礼拝が行われている。チャペルアワーは、チャペルに集まった学生や教職員が聖歌を歌った後、毎日一人ずつ10分くらいの「チャペルトーク」をしてくれる方がいて、それを聞いて解散というプログラムになっている。そのチャペルトークに今日、あろうことか私が当たったのである。というか、今日私が担当することは4月頃に決まっていたのであるが。
実は今週のチャペルトークはカルチュラル・マネジメント学科週間ということで、うちの学科の先生方が順番に行うことになっているのである。で、月曜から金曜まで5日間、5人の先生が担当することになるのだが、学科で担当を決める時、毎年私は「真言宗なので(笑)」と言って逃げ回っていたのですけれども、この学科の週間のチャペルトークは「真言宗でも逃げられない」らしく、ついに今年、捕まってしまったのである。
聞くところによると、段取りはまず聖書の一節を取り上げ、それに関連した厳かでありがたい一ネタ…でなくてお話をするという形式。お話の内容は事前に宗教センターに原稿にして提出することになっていた。聴覚障害の人がいたらスクリーンに話の内容を文字で流す準備をするためである。ということは、フリートークでなくて「原稿を読む」というスタイルになると思われる。もうこの時点で、私はものすごく重〜いものを背負ってしまったのである。まず、笑いどころを入れるような雰囲気ではないことが予想されるため、ネタ…でなくてお話の内容の見当がつかない。次に、いつも身振り手振りで脱線しながらフリートークするという私は、原稿を読むというスタイルがあまりにも苦手。どうしよう。6月の初めに勝谷さんに会った時にその話をしたら、勝谷さんは聖書を熟読しているらしく「言うてくれたら何でもテーマ引っぱってあげますよ」と言ってくれたのだが、テーマを引っぱってもらう前に解散したので、あれからネタ…でなくてお話の内容決めに結構苦しんでいたわけです。
行ってきました。チャペルには学生や教職員の方々が数十人。明日のチャペルトーク担当のすべるダジャレでおなじみのツルリン片山先生も座ってこっちを見よるがな。聖歌が終わって宗教委員長の速水先生が、私が何とか引っ張り出した聖書の一節を朗読してくれて、いよいよチャペルトークが始まりました。私の原稿の出だしは「今日は、私が授業の中で気づいたことを一つ、お話しします」であった。最初壇上に上がって速水先生の聖書朗読を聞いている時に、客席(客席とは言わないか)を見ていたら学生がこっちを見てニコニコしていたのでちょっと緊張が解けて、頭の中で出だしにちょっと軽く「今日は、私が授業の中で気づいたことを一つ、笑いどころもなくお話しします」とアドリブで入ってやろう…と急に思い立ったのだが、マイクの前に立った途端、何やら厳かな雰囲気に飲まれて「笑いどころもなく」のたった一言も挟めなかったとは、恐るべしチャペルの空気。
とりあえず、こんな話をしました。本邦初、私のチャペルトークの全文掲載(笑)。
コリント人への第一の手紙 第13章4節〜5節 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
今日は、私が授業の中で気づいたことを一つ、お話しします。
私は授業の始まる前に、学生に出席カードを配ります。学生はもらった出席カードに授業名と学生番号と名前を書いて、授業が終わるとそれを提出して、退室します。出席カードは原則として授業開始の直前に配り、遅刻してきた学生は授業が終わった後、教壇まで来て、色の違う、黄色のカードをもらってそれに名前を書いて提出してから退室してもらうことにしています。イエローカードと言って、これを出している学生は遅刻してきたことがわかるという仕組みです。
遅刻は3回で1回欠席の扱いとしています。これは一般の企業の社員管理でよく見られる、「遅刻3回で1日欠勤扱い」というルールを真似たものです。しかし、私は本来それほど厳格な性格ではありませんので、時々、授業が始まって少し遅れてきた学生にも「まあ今日はちょっとぐらいいいか」と言って、通常の出席カードを配ることがあります。
さて、私は毎年、すべての担当科目について科目の授業の最後、十数回の授業の最後に、レポートの一つとして学生に「授業の感想」を書いて提出してもらっています。「翌年の授業の改善に使うため、授業で気づいたこと、改善して欲しいことなど何でも構わないから書いてください。成績には関係ないので何を書いてもOK」ということで、毎年1科目につき数十枚から二百数十枚の「授業の感想」が集まり、それを全部読んで、改善すべき点があれば改善しながら5年間、学生による授業評価の始まる前からそれをやってきました。
その「授業の感想」の中に、毎年同じ指摘が来るのです。それは、「遅刻してきた学生にも通常の出席カードを配ることがあるが、それは不公平だ」という指摘です。毎年指摘が来るのは、私が少し思うところがあって、あえてそれを続けているからです。
さて、この「少し遅れてきた学生にも通常の出席カードを配るのは不公平だ」という指摘は、一見正論のように見えますが、実はそうではありません。
私はビジネスの世界にいた時から、マネジメントやマーケティングの重要な物差しの一つとして、「目的と手段の整合性」ということをいつも意識してきました。すなわち、具体的な目的を掲げ、その目的を達成するのに有効な手段は何かを考えると、行動すべきことがシンプルに整理されるからです。これを、先の出席カードの話に当てはめてみます。
授業を受けに来る学生の目的は、「自分に知識や知恵を身につけること」、あるいは「単位を取ること」でしょう。その目的を達成するために有効な手段は、自分がちゃんと出席することと、自分が授業の内容を理解することです。すると、他人が遅刻したのにラッキーで出席カードをもらうということは、その他人が一つラッキーをもらっただけであって、自分の目的を達成するためには何のマイナスにもなっていない、まるで関係ない、ということがすぐにわかります。ところが、何人かの学生は条件反射のように「不公平だ」と言ってそれをとがめるのです。
これは一種の「ねたみ」の感情なのです。彼らはおそらく、頭の中で「他人が得をすることは、自分の損だ」というふうにつながっているのです。「他人が得をしたら自分が損をする」というのは、パイ、つまり総数が決まっている時に起こることです。例えば、ビジネスの世界のシェア獲得競争などがその例です。しかし、遅刻した学生がたまに通常の出席カードをもらってラッキーを得た、というのは、少し冷静になって考えれば、自分は何も損をしていないことがわかる。言い換えれば、「自分が成長するという目的を達成する」ためには、少し遅れてきた学生が普通の出席カードをもらっても全く関係ないことは明らかです。つまり、それはただのねたみの感情なのです。
今、社会にはこうしたねたみの感情、つまり「他人の得は自分の損」という短絡的な思考があちこちに見られます。しかし、ほとんどの場合、他人の得は自分の損でも何でもないことが多いのです。他人の得をいちいち「自分の損だ」と思っていると、他人に何かいいことがあるたびに自分の心の中に何か嫌なものが積まれていきます。また逆に、他人が損をすると自分が得をしたような気持ちにもなります。これも根本は「ねたみ」の感情と同じです。さらに、他人の損で得た「得をしたような気持ち」というのは、冷静に考えると自分の本当の得ではない。見せかけの、偽の得に過ぎないのです。
最初の話に戻ります。遅れてきた学生にも出席カードを配るのは、不公平です。しかし、自分がちゃんと目的を持って、その目的を達成するために何が有効であるかをシンプルに考えている人には、不公平であることなど関係ないのです。私はいつも「自分の目的は何か、それを達成するために自分がやるべきことは何か」と考えるように心がけています。すると、他人にいいことがあるとすごく素直に喜んであげることができるようになってくるのです。
穏やかな心を持つために、優しい心を持つために、参考になれば幸いです。
以上、ゆっくりしゃべって10分足らず。でも実は私、本番で焦りまくってた。下を向いて原稿を読みながらしゃべり続けることがどうしてもできずに、つい、顔を上げてみんなを見渡しながらなるべく語りかけるように話してたらアドリブが入ってしまって、あわてて話を戻そうと下の原稿を見たらどこを読んでるのかわからなくなって(笑)、“ス”の時間を作るのが怖いのでしゃべりでつなぎながら必死で原稿部分を探して…というのを繰り返して、結局この原稿通りにしゃべれたのは6割ぐらい。終わって速水先生に「すんません、めちゃめちゃもたつきました」言うたら、「全然そんな風には見えませんでしたよ」と言われた。明日の担当の会場を凍らせるダジャレでおなじみのパキーン片山先生も「よかったですよ」と言ってくれたので、私はこう返した。
田尾「ちょっとええの見せすぎたかな」
私は終わったら強気になる(笑)。ちなみに昨日のRNCラジオの小つるさんと伊達さんの番組の中で短く同じ話をして小つるさんたちに「ええ話や!」と言われたが、あれは今日の練習だったことをバラしておこう(笑)。
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2008年6月22日(日)
また何かどんどん仕事が増えてきたぞ。民間ビジネスやフリーで仕事をしている人はどんどん仕事が増えてきたら収入につながるのだが、私はどんどん仕事が増えても給料はほとんど同じだ。でもやる。「頼まれて引き受けたら、相手の期待のちょっと上の成果をお届けする」のが私のモットーだから、必要以上に頑張る。
昨日、苦労していた仕事を一つ片づけたので、今日は朝9時からテレビをつけて、本放送を見逃した『ガイアの夜明け』の再放送をBSで見た。数年前に勝谷さんたちと一緒にお会いした日本ポリグルの小田会長が、バングラデシュで水の浄化に取り組んでいるという内容の放送だ。あの時は「うどんの廃水浄化が簡単に安くできる」という話を聞きに行ったのだが、会長は今回、泥水のような池の水で生活しているバングラデシュの極貧の村で、例の“魔法の粉末”と手作り浄化槽を使ってあっという間にきれいな水を作り出して村民の生活を救っていた。こういうのを見ると、私もものすごく「何かしなくては」という気持ちをかき立てられる。中でも印象的だったのは、村長が「その粉をまた譲って欲しい。我々にはお金がない」と言った時の会長の言葉だった。
「継続するには無料では譲れない」
その真意は、「これから10万人、100万人、1000万人の貧しい人にきれいな水をずっと飲めるようにしたい。そのためには、これをタダで提供し続けることはできない。また、きれいな水はタダでは手に入らないという考えを持って欲しい」ということだった。結局、一家で一月に50円だったか、おそらく採算は取れないだろうが村長が「それなら出せる」という値段で提供することになった。
夜9時、今度はNHKで奇しくもまたバングラデシュのダッカで極貧の人たちにお金を貸してビジネス(といっても小さな商売から)を始めさせ、住民を貧しさから救い出そうという、アジア最大のNGOの取り組みを紹介する番組を見た。貧しい人にお金を貸すといっても金利は高く(15%と言っていたような)、毎週返済とか毎月返済とかで決して「施し」ではない。この時もNGOの代表の人がこう語っていた。
「(無償)援助では貧しさから救うことはできない」
貧しさから脱出するためには「自分で努力する」という意識と行動が不可欠であることを、小田会長もNGOの代表も言っていた。番組ではお金を借りた貧しい人が頑張って仕事をして、きちんと返済できたことを喜んでいた。何か今日はものすごく考えながら番組を2つ見ていました。今の日本には、自分で努力する以前に援助(補助金から福祉制度への便乗から)をもらおうとする人、また補助金や無償援助で問題が解決すると思っている人の何と増えてしまったことか。そんなもので問題が根本的に解決したという例は、振り返って冷静に考えてみればほとんどないことに気づくはずなんですが。
ちょっと話がずれるかもしれないけど、10年くらい前に1人2万円、総額6000億円以上の「地域振興券」が発行された時、都村さんが「莫大な借金を作った張本人が、子孫の貯金箱に勝手に手を突っ込んでまだ自分たちのために使おうというのか。そんなものをもらうくらいなら働いて自分で2万円を稼ぎなさい。私は地域振興券は受け取りません」と言って、私も泣く泣く(笑)2万円をもらいませんでした。でも今になって思うと、あの時の都村さんの言葉が私に何か強い気持ちを起こさせてくれて、たぶん2万円以上のリターンが自分に得られたと思う。さらに精神的にも、小さいことだけどあの政党がごり押しした恥知らずの地域振興券をもらわなかった自分に誇りが持てている。結局、タダで配った地域振興券も根本的に何も解決しなかったわけで。
バングラデシュの番組の中で、NGOにお金を借りて自分でリスクを取って頑張っている人が「この国は、政府は何もしてくれない。貧困から抜け出すには自分でやるしかないんだ」と言っていた。これを聞いて、うちの国もちょっと、部分的にでも「何もやらない」という荒療治をやった方が、国民の意識と行動に喝が入るんじゃないかと思いました。もちろん、「何もやらない」というのは不要になった役人と議員もカットして自分でやってもらうというのがセットですけど。
などと思いながら一服してたら、M宅さんからメールが入ってました。
「『男のビックル』が出たの知ってますか?」
甘い飲み物禁止月間じゃ!
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2008年6月17日(火)
午前1時、仕事を止めて「全米オープンのプレーオフを見とる場合ではない」と決意して、寝る前にちょっとテレビをつけたら、CSで生中継が始まっていた。うーん、やっぱり見るか? 時間の計算をしてみる。プレーオフ18ホールが終わるのは、おそらく午前4時頃だ。もう徹夜ができる年ではないので、4時まで中継を見て直ちに寝るとすると、7時起きとして睡眠時間は3時間か…。それで授業と会議と来客と資料分析をやって夜まで持つか? いや、やっぱり無理はせん方がええんちゃうか? とか考えながらテレビを見ていたら、ショートホールでメディエイトがあわやホールインワンかというスーパーショットを放ってタイガーに1打差をつけた! うわ! やっぱり見よ! しかし睡眠時間3時間で仕事に向かうのは厳しいか…と思っていた時、ある考えが浮かんだ。
「3時間の中継を薄〜く寝ながら見てたら、半分の1時間半は寝たような勘定になって合計4時間半の睡眠になるんちゃうか?」
後から冷静になって考えると「アホちゃうか?」という計算だが、プレーオフの白熱の予感にあの時はどうかしてたのだ(笑)。私は作戦を決行することにした。ソファに横になって毛布をかぶり、テレビの方を向いて薄目を開けて半分薄〜く寝ながらテレビを見始めたのである。やってみると、お、ええ感じやぞ。脳は半分寝ているような静寂感があるにも関わらず、タイガーとメディエイトの一打一打が鮮明に見える。これ、ひょっとしたら大変な脳科学の発見かもしれんぞ! 5番ホールを終えて6番に向かうタイガーとメディエイト…。
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ハッと目を覚ましたら、テレビが見たこともない番組をやっている…時計を見たら…7時やんか!
おそらく5時間半の睡眠がとれました。ソファで寝たので体が痛い。アホです(笑)。結局、何がどうなったのか結果もわからんまま学校に行きました。全力で授業をやって、来客の応対をして、チンペイの相手もして、学生の就職指導もして、昼の2時、ゴッコで昼飯を食って、薬局でゼナの高いやつを買って飲んで会議をして、一日頑張りました。皆さん、3時間も「薄〜く寝」続けるのは無理です。
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2008年6月16日(月) 今晩は8時からまったりと『和風総本家』を見ておりまして。テレビ大阪の制作だそうですが、今、あの番組に出てくる外国人の子どもの吹替のやり取りと「仏像ソムリエ」にはまっておりまして(笑)。うまいなあ、あの番組の作り手の人。何か細かいところまで発想が素晴らしい。近年、テレビ東京系はすごく精神的に健康な番組が多い気がして好きなんです。
「ファンタどころか甘い飲み物は完全にシャットアウトするぞ月間」は、チンペイの妨害工作にも屈せず2週間を経過。FM香川の自販機のファンタはそのうち腐るのではないかと心配している。不思議なもので、最近は甘い清涼飲料水が欲しくなくなってきた。あれほど「タバコはやめない」と固く誓い合った上村さんが「肺気腫の兆候がある」と言われてタバコをやめてもう3カ月目に入っているし、人間、我が身に事が起こるとほんまに何でもできるんやなあ(笑)。ま、事が起こるまで何もできんのやけど。
タバコ、500円にしようと言うんか? 別に500円でも1000円でもええけど、値上げした分を税金で持って行くのだけは反対を表明しておく。理由はただ一点。「議員と役人にこれ以上お金を渡すのはいかん」と思うからです。今まで、渡しても渡しても無駄遣いして、1万円を渡したら1万円全部使ってしまって、その1万円がなくなるだけならまだしも、1万円で毎年1000円ずつ赤字を生み出すもの(ハコモノも、バラマキも)を作ってしまうような人たちです。しかもその赤字を勝手に借金で埋めてその借金を返すためにまた借金をするような、しかもその借金を自分たちでなくて他人(国民や子孫)に払わそうとしているような人たちに、ほんまにこれ以上お金を渡したらいかんと思うわけです。
この期に及んでは、もう立て直す方法はどう考えても「使うな」しかないのに、その「使うな」と止める役目の議員が誰も止めないんだから、「じゃ、渡さない」と言うしかない。どうしようもない浪費癖の息子を止めるのは「お金を渡さない」から始めるしかないじゃないですか。
そういうわけで、ガソリンの暫定税率復活も消費税アップもいろんな負担増も、根本的に「ドラ息子の性根をたたき直す」ためには全部逆行するという理由で私は賛成しない。ま、私が反対しても、たぶん我が身に事が起こる(破綻する)まで治らんだろうけど。
「お金を渡さない」の後の戦略を書こうと思ったら夜中の1時になりました。うーむ、どうしよう。全米オープンのプレーオフも始まりそうなのに、明日も仕事いっぱいなので徹夜するわけにいかず…。寝よ(笑)。とりあえずみんな、「止める人」を作るためにも選挙は行こうな。
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2008年6月8日(日)
月曜日以来、「ファンタどころか甘い飲み物は完全にシャットアウトするぞ月間」が進行中である。今日で1週間、飲み物は水、お茶、牛乳、ブラックコーヒー以外何も口にしていない。大学の研究室では机の上のポットの「湯」を飲んでいるぞ(笑)。福田社長は家で毎日「煮え湯を飲んでいる」らしいが、私は白湯(さゆ)だ。しかも間食もシャットアウトで、三度の食事以外一切食べ物を口にしていないという徹底ぶり。私はやればできる男だ。「なら普段からやっとけ」と自分で先に突っ込んでおきます。すんません。
さて、最近疑問に思っていることの(その6)です。
地方では地域の経済的衰退などで厳しい財政が続いていますが、これに対して私が知る限りの自治体では「住民参加の地方自治を進めよう」みたいな取り組みを掲げている県や市町がたくさんあります。でも、それってダメなんじゃないでしょうか? という疑問。
細かい枝葉の戦略部分は省略して、非常事態に下すべき指令として私の持っているイメージというか原理原則は、「各自、持ち場を離れるな!」である。『沈黙の艦隊』で原潜やまとが非常事態になると、海江田艦長は「全員持ち場を守れ!」と指示を出す。あのイメージです。すると、行政の非常事態に「住民みんなが政治に参加しよう」というのは、原潜の非常事態に「全員司令室に集合!」とか「全員で作戦を考えよう!」と言っているのと同じ構図ではないかと。それは潜水艦、沈没するぞ(笑)。
地域を経済的に豊かにするのは、民間企業である。民間企業の収益が地域の住民の収入を生み、雇用を生み、それが消費を生み、また地域の企業の収益を生み、経済活性のサイクルを生み出す。民間企業の収益が設備投資を生み、他企業の収益を生み、経済活性のサイクルを生み出す。税収が地域経済の活性化を生み出すのではない。ドバイの奇跡的な経済発展の原動力は、経済特区の法人税0%という施策である。アイルランドの奇跡的な経済復興の原動力も、安い法人税という政策が生み出した。中国の経済特区の奇跡的な発展も、古くは香港が世界の金融拠点に化けたのも、格安の法人税が大きな原動力になった。これらはいずれも「お金を行政(税収)ではなく、民間に預けたから経済発展が起こった」という典型的な例である。税収は地域を経済的に豊かにするものではなく、むしろ「税収は経済発展を阻害する」というのが原理原則だろうと思う。だって、本来次の経済活動に回るはずのお金を取り上げるんだもの。
やっぱりどう考えても、地域経済の非常時の指令は「全員持ち場につけ!」であろう。地域の経済発展を生み出すのは90%以上「民間の力」である(以前私が“民間が95%、行政は5%”と言ったのはこのこと)。従って地域の経済的非常時における民間の「持ち場」は、「経済活動に全力を挙げる」だと思うのである。それを「非常時だから民間は行政に参加しよう」と言っていては、地域は沈没するのではないか? というのが疑問(その6)である。行政というか、政治への民間の参加は、その「持ち場」から言えば極論すれば「投票行動」だけだと思う。この時、行政の持ち場は「税収を上げる」ではない。「地域の民間の経済活動が活性化するように動く」が、行政の持ち場である。
以上、地域の「経済的立て直し」に限った話であると念を押しておく。テーマをすり替えて「福祉はどうするんだ」という話を持ち出してくる人が必ずいるからである。ついでに言うなら、老人福祉に限って言えば民間(住民)の多くは今、本来自分の持ち場であるはずのものを行政に丸投げしているという印象である。さらに言えば、まちづくり運動などは自分の持ち場を守らずに他人の持ち場のことをやっているという印象である。このあたり、詳しく書けば本になるのでここでは書かないが、本にするつもりもないことは言うまでもない(笑)。すんません。
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2008年6月5日(木)
火曜日の朝、授業の前に教室のカギを取りに教学課に行ったらチンペイが渾身のギャグでカギと一緒にファンタを出してきたが、あんまりいじると図に乗ったらいかんので流しておく。今日はちょっと、最近疑問に思っていることをいくつか。
(その1) 地球の温暖化の原因の根源は、二酸化炭素の排出も含めて「人類の営み」であるというのが定説らしいが、とすると「人口を減らす」というのが明らかに有効な手段になる。とすると、「少子化対策」というのは地球温暖化防止に逆行するのではないか? 地球温暖化防止を唱える人は、少子化対策に反対しているのか?
(その2) 老人の孤独死の事件や、いろんな制度によって「高齢者の生活が苦しくなる」といったニュースを聞くたびに思うのだが、そのお年寄りたちの子どもは何をしているのだろう? 私は自分の親が厳しい状況に追い込まれたら、何はさておき助けようとするのだが。
(その3) 行政改革が「役人の抵抗」で進まないという話をよく聞くが、行政改革の権限は役人ではなくて議員が持っているのではないか? つまり「役人の抵抗で進まない」というのは、正しくは「議員の妥協で進まない」のではないか?
(その4) 「地産地消商品」をブランド化して全国に販売しようというプロモーションがあちこちで取り組まれているが、全国に売るというのは「地産地消(地元の産品を地元で消費する)」ではないのではないか?
(その5) 「農産物の自給率を上げろ」と言っている人は、具体的に「誰」に「どうしろ」と言っているのか? 例えば行政に何をしろと言っているのか? JAにどうしろと言っているのか? 農家にどうしろと言っているのか? 私ら消費者にどうしろと言っているのか? とりあえず私らには「高い国産の農産物を買うべきだ」と言っているのか?
ま、(4)は言葉だけの屁理屈ですが、まだまだあるけどとりあえず今日はこれだけ。一応自分なりに答は出そうといろいろ勉強しておりますが、調べても調べても情緒的な意見や考え方ばっかり出てくる。目的と手段の整合性が取れた論理的な意見って、なかなか出くわさないですねえ。
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2008年6月2日(月)
今日は大学で年に一度の健康診断。去年、バリウムを飲んだ後、下剤を飲んだまま上戸にうどんを食いに行ったという、あれだ。昨日の晩9時過ぎから飲まず食わずで、しかし自信満々で、私は午前10時過ぎに大学の保険館に向かった。3年前、体重がピークの時に同じ大学の健康診断で血糖値も肝臓の数値もかなり悪いと診断されて以来、峰山ウォーキングを開始。以来、体重は7キロ落ち、血糖値と肝臓の数値は劇的に改善し、一昨年も去年も「問題なし」である。受付を済ませ、まず身長と体重を測る。それからレントゲンを撮って「次は検尿。コップに尿を取ってきてくださいねー」と言われて尿を取って係に持って行ったら、看護士さんが何か細い試験紙みたいなのを入れて、それを見ながら言った。
看護「糖が下りてますねー」 田尾「えー? 体重も落ちて絶好調なのに」 看護「いや、これは再検査言われるかもしれん」 田尾「ほんまですか!」
わけがわからんまま、続いて心電図や採血やいろんなのを回って「問診」の部屋に入った。担当の先生は、すごく落ち着いた感じの信頼できる感じのおばさんだった。
田尾「尿に糖が下りとる言われました」 先生「ほんまやねー。去年も一昨年もなかったのにね」 田尾「ほら、肝臓の数値も劇的に改善してるでしょ?」 先生「何か心当たりはない?」 田尾「ファンタ、よっけ飲んみょりますけど(笑)」
軽くジャブを放ったのだが、先生、あんまり食いついてこんかった(笑)。
先生「食べ過ぎとか飲み過ぎは?」 田尾「いや、あんまり食べてないです。昼はしょっちゅう抜きになるし」 先生「そらいかんわ。昼はちゃんと食べて、夜を少なめにせないかん。間食は?」 田尾「時々…いや、割と間食します」 先生「それはいかん。食事したら血糖値は上がるけど、その後スーッと下がるんよ。けどそこに間食したら、血糖値の下がる暇がないやろ? まあたぶん再検査の指示が出ると思うけど、とりあえず間食をやめてちゃんと昼ごはん食べて。あとは再検査があったらお医者さんの指示に従ってくださいね。じゃ、これ持って次は胃の検診に行って」
私は渡された紙を持って問診の部屋を出た。間食やめて昼飯か。私は最近ちょっと油断気味であることを反省しながらふと紙を見たら、先生の書き込みが目に入った。そこにはこう書かれてあった。
「最近ファンタかなり飲む」
ファンタかい!
そういうわけで、しばらくファンタは飲みません(笑)。私が「ファンタグレープが最近とてもうまい」と言っていたら、数カ月前からFM香川の『うどラヂ』の収録スタジオのすぐ横の自販機に「ファンタグレープ」が入ったのだが、あれ、今月から売上激減するからな(笑)。
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2008年6月1日(日)
夜、家内とスパイス王国(インド人のやってるカレー屋)でカレーを食べてた。「シャッター通り」の象徴と言われるトキワ街商店街の2階にあって、さらに日曜日の夜8時という特に人通りの少ない時間帯に、さして広くない店内に客が私らを含めて12人。入ってるやん。
家内が言うには、3日前の木曜日の夜、友達数人で商店街の居酒屋に行ったら満員で、続いて行ったバーみたいな所も超満員で、後から来た何組かは入れないで帰ったらしい。2軒目に移動中に見たいくつかの店は外から見てもガラガラだったのに、行った店は2軒とも満員だったと。わずか数軒の情報ではあるが、どういうこと? ちゃんとマーケティングをやってる店は絶好調で、魅力のない店がガラガラという、当たり前の二極化が顕著になってるということかな。
けどその「魅力」というやつも、どうも昔のマーケティングの教科書では説明できないことになってきているみたいです。去年、仲間で行った人気の海鮮料理屋で、「本日のおすすめ」と書かれた刺身の盛り合わせみたいなのを頼んだ時、私はそこに載ってきたハマチの刺身を一口食べて吐き出した。
田尾「うわ! 何これ!」
何か薬っぽい味というかニオイが後に残るのである。魚のプロの盛の大将に食べてもらったら、
盛「これはエサのニオイやな。養殖のハマチにやったエサのニオイが残っとんですわ」
私にしてみたらとても食べられるシロモノではないので、もう一切手を付けなかったのだが、気になって満席の周りを見てみたら、みんなバフバフ食いよる。「いいものを出せば客が集まる」のは教科書通りだと思うけど、一方では「悪いものを出しても客が集まる」という現象が確実に起こっている。安けりゃ何でもいいのか。そら中国産の毒餃子にやられても文句は言えんのちゃうか?
で、トキワ街である。スパイス王国から商店街を見下ろすと、下りたシャッターに「貸店舗」の貼り紙がいくつもある。最近「トキワ街ににぎわいを取り戻そう」ということで時々イベントみたいなものが行われているが、そんなのを思い出しながら考えていたのである。トキワ街を「活性化」しようとしている人たちは、どういう「完成予想図」を頭に描いているのだろう。普通に想像すると、トキワ街復活の完成予想図は「貸店舗が全部埋まって再び通りに店が並び、そのどの店もお客さんがたくさん来て物が売れる」という姿ではないだろうか。すると、それを実現するには
(1)空き店舗に店が入る。 (2)その店が流行る。
という順で問題が解決しないといけない。これが「具体的な目的」である。すると、最初の「空き店舗に店が入る」という目的を達成するための有効な手段はどう考えても「あそこで店をやる人を探す」であり、絶対イベントではないのである。例えば「商店街の人の中でやる気のある人に空き店舗を売る(貸す)」、あるいは「外部の人に売る(貸す)」、「一店舗ずつでなく、一気に全部売る(貸す)」とかいう戦略を最優先で動く。今のままでは誰も買って(借りて)くれないなら、買ってくれるための条件を整えることに全力を挙げる…とかいう話が先決になる(丸亀町商店街みたいに「何十億円もの補助金を取ってくる」という作戦もあるが、それは国民や子孫に借金を押しつけて自分たちだけいい目をしようということになるのでやめてもらいたい)。
次の「その店が流行る」ための手段は、言うまでもなく「買いたくなる商品を揃える」が基本だ。すると、「貸店舗が全部埋まって再び通りに店が並び、そのどの店もお客さんがたくさん来て物が売れる」という姿を目指すなら「イベント」はそのどちらの目的にも有効でないことがすぐわかる。シンプルな「目的と手段の関係」が、ちょっとずれているのである。で、さっきの「どういう完成予想図を描いているのだろう」という質問に戻るのである。もともと目的が「トキワ街の復活」じゃないのかもしれない。「楽しいイベントをやること」が目的なら、割り切って理解できるか。
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