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2015年09月の日記
2015年9月27日(日)

 産経新聞のコラムによると、朝日新聞の一面コラムが「有権者に問いたい。(昨年12月の衆院選は)熟慮の末の投票・棄権だったのだろうか」と、とうとう自民党に投票した有権者に矛先を向けてきたそうです。さらに、毎日新聞東京版で作家の高村薫さんが「この有権者たちは、政治を自分のこととして考えたことがあるのだろうか。猛烈に腹が立つ」と、これまた先の衆院選で自民党に投票した有権者を非難していたそうす。

 「自分の意見が受け入れられなかった時にどういう振る舞いをするか」というのは、私が人を見る時のかなり重要な判断基準の一つなのですが、私は自分の意見が受け入れられなかった時、まず最初に「なぜ自分の意見が受け入れられなかったのか?」をロジカルに考えるようにしているわけです。「感情的に」ではなく「ロジカルに」です。そして、「自分の意見は目的を達成するための手段としてどこが劣っているのか?」、あるいはロジカルに考えて、それでも自分の意見が目的を達成するのにより有効だとなれば、「自分の意見を受け入れてもらうために、では別のどういう手段を採れば有効なのか?」と考えて、次の行動を決めるようにしている。

 とにかく、自分の意見が受け入れられなかった時には、その意見と、意見を主張する手段を、冷静に、ロジカルに考えて修正するようにしているわけです。そして、自分の意見が受け入れられなかった時に絶対にやるまいと誓っているのが、「八つ当たり」です。

 朝日新聞も高村さんも、背景に何があるのか知らないけど、たぶんそれは八つ当たりの類だと思いますよ。

***

 さらにもう一つ引っかかったのが、高村さんの「政治を自分のこととして考えたことがあるのだろうか」という意見である。私は先の衆院選で“熟考して”自民党に投票した有権者の一人であるが(その前は熟考して民主党に投票した・笑)、私は考えて投票するようになって以降、政治を「自分のこと」として考えて投票したことは一度もない。地方選挙の時は政治を「地元のこととして」、国政選挙の時は政治を「国のこと」として考えて投票している。それぞれの候補者や政党の掲げる主張が「自分にとってどうなのか?」ではなく、「地域にとってどうなのか?」「国にとってどうなのか?」という判断基準で投票している。

 なぜなら、我々が選ぶ議員は我々の代表として「地域のため、国のため」に働いてもらうのだから、投票行動も当然「自分のため」ではなく、「地域のため、国のため」が最優先になるべきだと思っているからである。すると、国や地域にとっていいこと(やるべきこと)が目先の自分の利益と相反することが出てくることがあるが、その時は「地域にとって、国にとって」の方を優先するしかない。みんなが「自分のこと」を優先していたら、国や地域のことなんか何もできなくなるからである。

 ちなみに、安保関連法が採決された翌日、四国新聞に街の声としてこんな意見が載っていました。

▲宇多津町の女子学生(18)は「大規模な反対デモが相次いでいる中、急いで成立させる意味がわからない」と憤り、「選挙権年齢が下がって来年の参院選では投票ができる。きちんと判断して投票したい」と話した。

 物事をロジカルに考えず、政治を「自分のこと」としてしか考えていないと、あのデモが国民を分母として見て「大規模」かどうかもわからない、「急いで成立させる意味」も考えられない、そしてロジックではなく自分の好き嫌いの感情で判断して投票してしまうような人間になってしまうんだ。まあ、高校生や大学生の多くはロジカルシンキングなんか習ってきてないだろうから、たぶん選挙権が18歳からになったら、こんな女子学生みたいなのが「対案」も出さない政党や政治家に「正義だ」と言ってたくさん投票するようになるんでしょうね(笑)。

 あともう一つ、これも法案成立後の四国新聞に「安保法成立 平和は確保されるのか」という、この期に及んでまだ「安全神話」みたいなものを振りかざしているようなタイトルの座談会が掲載されていました。大丈夫ですか? 平和も安全もいつ脅かされるかわからないんだから、「確保」なんてできるわけがないでしょう。だから、この間成立した安保関連法案は、日本の安全を守るためにはまだまだ不備だらけだと思いますよ。法案反対派の人たちが「勝負はこれからだ」と盛んに言っていますが、あの人たちは対案を出さないから、たぶん「法案を潰す勝負」のことしか考えていない。「日本の安全保障をより強くさせるための勝負はまだまだこれからだ」と考えるべきだと思うのですが。

 以上、宇多津町の女子学生(18)よりは物事を論理的に考えているつもりだけど、朝日新聞と高村薫さんに「考えなしに投票したバカ」扱いされている有権者の一人でした(笑)。
2015年9月21日(木)

 私はニュースを見たらいつも、「自分がその立場だったらどうするか?」と考えるようにしている。

 例えば、子供が通り魔みたいなのに殺されたとかいう事件があると、「殺した奴を憎む」とか「殺された子供や家族を悲しむ」という話はさておき、

・自分の子供が殺されたら、自分は親としてどうするか? どう振る舞うか?
・自分の子供が殺されないために、親としてどうしたらいいのか?
・自分の子供が他人の子供を殺したら、自分は親としてどうするか?
・自分の子供が他人の子供を殺すようなやつにならないために、自分は親としてどうしたらいいか?

というふうに考えるのである。そして、自分で考えてその答を出して、それをもとに「その事件についての自分のコメント」を考えるのである。

 例えば、どこかの会社が不祥事を起こして社長が会見で謝罪しているニュースが流れると、

・自分があの会社の社長だったら、同じ不祥事が起こった時に自分は社長としてどうするか?
・自分があの会社の社長だったら、そういう不祥事を起こさないためにどうすればいいのか?

と考える。すると、「あいつは悪い奴だ! 徹底的に叩け!」という感情論だけでマスコミと一緒にバッシングするような、筋肉と反射神経で反応するようなレベルから一つ上の、「大人の論理的思考」に近づけるように思っているからである。

 例えば、このたびの安保法案騒動について自分の意見をまとめる時は、

・自分が内閣総理大臣だったら、どうするか?

と考えて、自分で答を出すという訓練をしている。これはかなり大変である。その答を出すためには、日本の置かれた状況から、同盟国アメリカの事情、周辺の敵性国家の考え方や動向、いろいろな国内事情、さらには自分の選挙のこと…等々、ものすごくいろんな情報を集めないと、絶対に答が出せない。しかも、それを建前論でなくて本音のところで「本当に総理大臣になったら、自分は何をどう考えてどういう結論を出すのか?」と考えないと、本当の答にならないからである。

 でも、そこまで考えて初めて、何とか、筋肉と反射神経で反応するような感情論レベルから一つ上の「大人の論理的思考」に近づけると思っているから、頑張って考えるのである。

 そういうわけで、こないだからヨーロッパの難民問題について考えています(笑)。笑い事じゃないけど、私ごときが考えるような話でないのに考えている、という「場違い感」を表した(笑)です。例えるなら、「大野原町が非核宣言をする」みたいな(笑)。わかりにくいか。

 難民問題で私が考えるテーマは2つ。

(1)私が中東とか西アジアとかアフリカとかの内戦や紛争でえらいことになっている国民で、自分の住んでいる国より遙かに豊かなヨーロッパ諸国が難民受け入れを表明したら(あるいは表明してなくても)、自分はどういう行動を取るだろうか。

(2)自分がドイツの首相だったら、国内外の諸事情や受け入れた時のメリット、デメリット、受け入れなかった時のメリット、デメリット等を全て総合的に考えて、どういう決断をするだろうか。

 これも、いろんな情報を集めて「現状認識」をしっかりしておかないと、自分の答が出せない。そして今、とりあえず、まだ答が出ん(笑)。

 答が出ないうちは、もしかしたらいざ自分がその立場になったら同じことをするかもしれないので、無責任に感情で難民や各国首相や国民のやっていること、言っていることに対して批判ができんのである。ただし、自分の考えが正しいかどうかは別にして、そうやって考えて行くと、少なくとも自分の意見がロジカルに整理だけはできていくのである。

 ま、そんなことをいちいち考えるのは面倒くさい話だし、時々、「自分がその立場になったらどうするかを何も考えずに批判だけするのは楽な話だろうなあ」と思ったりもするが、民主主義国家に住んで一票を持っている一国民として、そんな“衆愚”にはなりたくないので、とりあえず今日も、いろんなニュースを見るたびに「自分がその立場だったらどうするか? と考えるトレーニング」を続けております。ちなみに、体力のトレーニングはずっと、おろそかになっております。
2015年9月17日(木)

 9月7日の四国新聞の読者投稿欄(四国新聞には読者投稿欄が1週間に1回、数本だけしか載らない)に、冒頭から2本、72歳と89歳のご高齢者の方から「平和」云々の投稿が載っていた。

 まず1本目は「平和を手放す法案 阻止しなければ」というタイトルで、本文はテレビ番組の「硫黄島から生還した老人の証言」に対する感想から始まって、最後に「310万人とも言われる幾多の貴い犠牲の末に、やっともたらされた平和。多くの人々の70年間にわたる努力によって守られてきた平和を手放すことにつながりかねない法案が、強行採決されるようなことがあってはならない。そんなことは、なんとしても阻止しなければならないと、今強く思うのである」と締めくくられている。

 2本目は、「平和を永遠に守ってもらいたい」というタイトルで、同じく本文の大半を使って戦時中の生活の苦労話が延べられ、最後に「戦後はお仕着せかもしれないが、平和憲法に守られ、平和な日々が続いていることは、まことにありがたい限り。この平和を永遠に守っていってもらいたいと願ってやまない」と結ばれていた。

 全国の多くの人には信じられないかもしれないが、四国新聞は「社説」のない新聞である。昔、ある勉強会で四国新聞社のしかるべき地位の方に「何で四国新聞は社説がないんですか?」と尋ねたら、「新聞というものは、自社の意見ではなく、事実を淡々とお知らせして読者に判断をしてもらうというスタンスで報道するものだ」という説明(たぶんその方の個人的見解)を頂いたことがある。でも、その説明じゃ「中央紙をはじめほとんどの新聞に社説がある」ことと「四国新聞に左右両論が載ったのを見たことがない」ことの説明が付かないのですが(笑)…と思ったけど、深く突っ込むと面倒そうだったのでやめた。

 まあいずれにしろ、新聞は「掲載記事の取捨選択」や「見出しや文章の書き方」や「掲載する読者投稿の取捨選択」で自社の主張がわかるから(どうせばれているんだから社説でビシッと書いた方が潔いと思うのですが)、上記の2本の投稿は基本的に四国新聞の意向に沿ったものだと思っていいのでしょう。

 さて、この投稿のような「戦争は悲惨だった。戦争が終わってから今日まではずっと平和が続いている」というすごく単純化された話をあちこちで目にするのですが、前回の日記で書いたように、私は何かの事柄について自分の考えをまとめようとすると、まずそこに関わった全部の登場人物(国)の状況を全部並べることから始めるという面倒くさい習慣があるので、例えば、あの戦争のことについて考えるなら、

(1)戦争が日本有利に進んでいる時の、日本の状況(新聞は論調が絶好調で、国民の多くもかなり熱狂していて、経済や社会も活性化していたと聞きますが…)と、その時のアメリカの状況、韓国の状況、中国の状況、東南アジア諸国等々の状況。

(2)戦争で日本が不利になってきた時の、日本の状況(この辺から上記投稿にあるような悲惨な状況が出てきたのではないかと思いますが…)と、その時のアメリカの状況、韓国の状況、中国の状況、東南アジア諸国等々の状況。

(3)戦争に負けた時の日本の状況と、その時のアメリカの状況、韓国の状況、中国の状況、東南アジア諸国等々の状況。

 とかいうふうに分けてみるわけです。実際、たぶんそれぞれの局面で国も国民もそれぞれ違った状況にあったはずです。

 すると、もしあの戦争を分析して今後に生かそうとするような会議があったとすると、その席で「戦争は悲惨だった」の一括りのような言い方をしたら、たぶん「君の意見は分析に役に立たないから、もう来なくていい」と言われると思います(笑)。分析会議で役に立たないということは、戦争の原因も追求できず、「では、戦争を避けるために今後どうすればよいか」という対策も立てられない人間だと見られる、ということです。

 次に、戦後の平和云々の話を考える時にも、これも具体的事象を全部並べて考えずに「戦後はずっと平和だった」という一括りの「答」しか持っていない人は、「安全保障の対策会議」では議論すらできない、役に立たない人だと言われると思います。

 例えば、アメリカに占領されて主権すら持てなかった時期の日本は、国民の求める「平和」の姿だったのか? 韓国に勝手に李承晩ラインを引かれて竹島を不法占拠され、そこに近づいた日本国民が韓国に拿捕されたり射殺されたりしていた時は「平和」だったのか? 同じくロシアに北方領土を奪われ、そこに近づいた日本国民がロシアに拿捕されたり射殺されたりしていた時も「平和」だったのか? 北朝鮮に日本人を拉致され続けていた時代も「平和」だったと言うのか?

 あるいは、北朝鮮が核開発を進め、日本海にミサイルを撃ってくるような状況も「平和」だとするのか? そして今、中国が尖閣で軍事行動を起こし、南シナ海で「軍事基地」を作り、露骨に覇権主義を展開している状況も「平和」だと言うのか? さらに、韓国と中国が日本の戦争犯罪を誇張と捏造を交えて世界中に流布し、日本に対する攻撃を世界が肯定するような状況を作り出そうとしているのも、日本では「平和が続いている」とするのか?……等々。

 そういうふうに、なるべく状況を全部並べて俯瞰して考えてみると、国の置かれた状況というものは、「戦争状態」と「何者にも脅かされない平和な状態」の2つでは決してない。言うなれば、
(1)何者にも脅かされない「平和」な状態
(2)防衛力で必死で平穏な状態を保っている状態
(3)戦争の危険をはらむ小競り合い状態
(4)戦争状態
という、最低限4つの局面があるのではないか? と私は思っているわけです。

 そこで問題は、「今の日本はこの4つのどの状態にあるのか?」ということです。ここを共通認識していないと、「ではどうすればよいのか?」という議論は絶対にかみ合わない。それ以前に、建設的で正常な議論が始まらないからです。

 会議で議論して何かを決めようとする時の手順は、会議参加者の間で、

第一ステップ…会議の「目的」を共有する。
第二ステップ…「現状認識」を共有する。
第三ステップ…「対策案」を持ち寄る。
第四ステップ…持ち寄った案を「どの案が目的を達成するのに最も有効か?」という一点で議論し、対策を決定する。

という4つの段階的条件が不可欠です。「違う目的」や「違う現状認識」を持った者同士が集まって議論すると、いつまで経っても平行線で絶対に対策の合意などには漕ぎ着けられない。また、反対するにも対案がないと「どの案が目的を達成するのに最も有効か?」という議論が成立しないからです。

 この手順に今回の安保法案騒動を当てはめてみると、まず「目的」は、賛成派(自民党)も反対派も「日本の平和を守る」という目的で一致しているわけですから、第一ステップは議論するまでもなくクリアです。自民党も賛成派も誰も戦争をしようとなんか思ってないわけですから、「自民党は日本の平和を壊そうとしている」という主張は、どう考えても相手を貶めようとする悪意ある言いがかりです。

***

 で、目的の共有を確認すると、次に第二ステップの「現状認識の共有」に行きます。今の安保法案騒動は、ここでいきなりつまずいているような気がします。

 まず、自民党や法案賛成派は、今の日本は上記(2)の「防衛力で必死で平穏な状態を保っている状態」か、(3)の「戦争の危険をはらむ小競り合い状態」にあると思っている。だから「何とか手を打たなければいけない」と考えて、そこで「この状況を何とか改善して日本の安全を守るために、防衛力(集団安全保障体制)を強化しよう」という一つの案を出した。それが今回の安保法案だと思います。

 一方、法案反対派はたぶん、今の日本は(1)の「何者にも脅かされない平和な状態状態にある」と思っているのではないでしょうか。つまり、冒頭の読者投稿のように「“この平和”を守らなければならない」と言っている人は、日本人が日本国内(領海内)で拿捕されても射殺されても、拉致されても、日本国内(領海内)で他国軍艦に威嚇されても、それは「平和」だと言っていることになるからです。

 すると、反対派の主張は、具体的に言えば「今は平和だから何もすべきではない」という話になります。「何もすべきでない」ということは「対策なんかしなくていい」ということだから、必然的に「対策案」なんか考えてもいないと思います。だから自民党案に対する「対案」がいつまで経っても出てこないのでしょう。しかし、この第二ステップで「現状認識の共有」ができていないのでは、「どうすればいいのか?」という大事な議論が始まらないわけです。

 従って、この安保法案の議論を進めようと思うのなら、まず(この期に及んで「まず」もないだろうけど)、「今の日本を取り巻く状況は、安全保障のために何かをしなければいけない状態か? 何もしなくていい状態か?」という点にはっきりと答を出さないといけない。情けないけど、今の騒動を見ていると、どう考えても話はそこからでしょう。

 具体的には、自民党は、中国やロシアや北朝鮮や韓国の日本に対する威嚇行動や、テロの状況や、あるいは世界中の国々とのいろんなせめぎ合い等をファクトベースで並べて「このままでは日本の安全が守れる状況にないから、何とかしなくてはいけない」という(2)の現状認識を主張する。

 対して反対派は、「中国やロシアや北朝鮮や韓国の行動もテロも、日本の安全を脅かすものではない。だから日本は何もしなくてよい」という主張を、ファクトベースでロジカルに主張する。

 そして、「国民の意見を聞け」というのであれば、双方の主張を並べて「今、日本は安全を守るために何かをすべきだと思いますか? 何もしなくていいと思いますか?」と聞けばいいのです。しかるのち、それを参考資料として双方で「何かをすべきか、何もしなくていいのか」を議論して答を出せばよい。

 そこで、もし「何もしなくていい」という結論になったら、自民党は「改正安保法案」を出す意味がなくなるわけです。それでも自民党が改正安保法案を出してきたら、それこそ反対派は「合意違反だ」と主張して、デモをするならプラカードには「日本は今のままで安全だ! 中国もロシアも北朝鮮も、韓国もテロ集団も、日本の安全を脅かすものではない! だから日本は何もすべきでない!」と書けばよい。特に冒頭の投稿のような主張をする人たちは、そういう論陣を張るべきでしょう。

 逆に、もし「周辺諸国やテロは日本の安全を脅かす存在であるから、日本は何とかしないといけない」という結論で合意すれば、今度は賛成派、反対派双方が「ではどうすればよいか?」という対策案を出して、「日本の安全を守るために、どういう方策が最も有効だと思われるか」という一点で議論を始めることになります。

 それについて、政府自民党はこのたび、「今の周辺諸国のプレッシャーから日本を守るためには、防衛力を強化するのが最も有効な対策だ。しかし、今や一国で国を守れる時代ではないので、集団安全保障体制を今以上に進めるべきだ」という案を出したわけです。まあ、あの程度の改正では万が一の緊急時にはとても日本の安全を守れるとは思えませんが、とりあえずちょっとだけ進める案を出したわけです。

 ところが、反対派はデモやアジテーションは盛んにやっていますが、この期に及んでもまだ自民党案に対する「対案」を出してこないわけですね。もし、本当にこの状況でも「日本は何もしなくていいから対案は必要ない」と思っているのであれば仕方がありませんが、それなら国会で「廃案にしろ!」ではなく、
「日本は何もしなければ戦争に巻き込まれない!」
「何もしなければ、中国は尖閣から手を引く!」
「何もしなければ、北朝鮮は核開発をやめ、韓国も竹島の不法占拠と卑劣な日本バッシングをやめる!」
等と主張すべきでしょう。デモをしている人たちも、そういう文面のプラカードを掲げれば国民に対する一つの「対案」のようなものになる。でも、それをやらないとなれば、それこそ国民に対する「説明不足」というか、ごまかしになってしまいます。

 ただし、「我々は『何もしないでいい』などとは言っていない」と言うのなら、やっぱり絶対に対案を出さないと、自民党案に対するただの嫌がらせになってしまいますよ。

 余計なお世話ですが、何ならちょっと私が「対案」を作ってみましょうか?(笑)

 まず、反対派の大前提は「集団安全保障の否定」であり、「憲法絶対」の憲法教ですから、究極には「軍事力の否定」ですね。その主張を守りながら日本の安全を守るための「現実に即した対案」を作るなら、案のタイトルは、

「軍事力を使わず敵性国家の日本への軍事プレッシャーを防ぐ方策」

となります。すると、具体的に考えられる方策は、

(1)敵性国家に対する「平時」の対策は、全て「話し合い」で解決を図る。
(2)もし話し合いが通じず「有事」になった場合は、戦わず降伏する。

の二本柱です。そのうち、(2)は無抵抗で降伏するだけだから組織も戦略もいらない。尖閣も竹島も中国や韓国に差し上げればいいのですから、別に何もしなくていいという話になります。従って、現実的な対策の目玉は(1)の「平時対応」をするための体制作りとなります。それは、軍事力の行使を否定して対応するのですから、必然的に、

●自衛隊を廃止して「話し合い隊」を新設する。

しかないでしょう。←ここ、(笑)を入れていいかどうか判断が難しい(笑)。

 「話し合い隊」の組織は、まず「話し合い司令部」が上部組織になります。「話し合い司令部」の任務は当然、中国の軍隊やロシアの軍隊、北朝鮮の軍隊、韓国の軍隊と反日宣伝部等と、日常的に話し合いに奔走することです。

 そこで、それでも中国の海軍や空軍が尖閣等に出てきたら、こちらもそこに出て行って現場で直接対峙して話し合いをするため、「話し合い司令部」の下に、

●海上話し合い隊(略称「海話」)
●航空話し合い隊(略称「空話」)
●陸上話し合い隊(略称「陸話」)

を設置し、話し合いをするための拡声器か無線の付いた船や飛行機や戦車(自動車でいいか)を準備しておく必要があります。また、各隊員は日夜、中国語とロシア語と韓国語で相手をギャフンと言わせるような、あるいは時には笑わせ、時には感動で涙ぐませるようなハイレベルのトーク術の訓練に励むことになります。
 
 書いててアホらしくなってきましたが(笑)、気を取り直してしっかり「対案」を作らないといけません。

 しかし組織を作って訓練しても、実際に有事に効果を発揮するのかどうか、ある程度の実績がないと説得力がありませんから、まずは野党国会議員や朝日新聞社をはじめとする左派の論客、評論家、大学教授、左派団体のトップ、デモのリーダー等で「シャドウ話し合い隊」を作って、中国に行って話し合って尖閣へのプレッシャーと周辺諸国への弾圧行為を止めてきてはどうでしょうか。

 また、韓国に行って話し合いで反日活動を止め、北朝鮮へ行って話し合いで核開発を止めてきてはどうでしょうか。それで止められたら、その「話し合い隊」の実績を付けて「対案」の有効性を証明すれば、これは大きな選択肢になります。日本国民の大半が「よし、それで行こう!」と賛成すると思いますよ。

 もうええかな(笑)。

 まあとにかく、「対案」が出てこない限り、私は反対派の主張が「どうやって現実的な周辺敵性国家のプレッシャーをやめさせ、どうやって国を守ることになるのか?」の判断が付かないので検討も議論もできない、というのが今の私のこの問題に対する現状です。反対派の方々には、ぜひ、そこのところの「説明責任」を果たしていただけることを希望します。私は戦争は嫌いだし争い事も嫌いなので、現実的で合理的な「戦わずして国を守る対案」が出れば、そっちに乗ります。
2015年9月7日(月)

 安倍さんが民放のトーク番組に出たのに対して、枝野さんが「国会をサボっているに等しい」と批判して、それをまた大まじめに取り上げるマスコミがいて…

 これまでさんざん「国民に説明が足りない」と責めておいて、「じゃあ、国民がたくさん見ているであろう番組に出て説明しよう」としたら「国会をサボっている」と批判して、もう、タチの悪いヤクザがインネンつけてるみたいなことになってきましたね(笑)。それをそのまま載せるマスコミも全く同罪。

 「説明責任を果たせ!」と言っている野党や左翼こそ、対案を出して「なぜそれが有効なのか」の説明責任を果たしてくれないと、こっちは案の比較も検討もできやしません。「正しい歴史認識こそ必要だ」と日本を責める韓国や中国こそ、歴史の捏造をやめてくれないと、こっちとしてはまともに相手などできやしないのと同じです。

 などと4日連続でこんなことを書いていると、「おっさん、近年すっかり変わってしまったな」とかいう声もちらほら聞こえてきたりするのですが、実は私はタウン誌の編集長時代から「笑いの文化人講座」のコメントや読者の質問に答える「編集牛答弁(のちの社牛答弁)」で時々タマを撃っていたのを、ほとんどの人が忘れているようです(笑)。というか、そもそもそんなことをやっていたのを知らないか。

 当時(もう25年以上前ですが)、その「編集牛答弁」のコーナーに「いじめ」の問題について質問が来たことがある。その時、私は「問題解決の糸口を探るために、そこに関わっている登場人物を全部並べてみよう」ということで、まず生徒を、

(1)いじめをする生徒
(2)いじめをしない生徒
(3)いじめられる生徒
(4)いじめられない生徒

の4つに分け、「それぞれの生徒の何が違うのかを分析してみると、何かのヒントが見つかる可能性が高い」みたいなことを書いた。つまり、いじめが起こると、ほとんどの人が「いじめた生徒を責める」ことと「いじめられた生徒を擁護する」ことに集中するけど、実はその他に「いじめをしない生徒」と「いじめられない生徒」が確実にいるわけで、問題解決の方策を探るためにはその全てを分析しないとたぶんうまくいかないと思ったからである。さらに加えて、

(5)いじめをする生徒の親
(6)いじめをしない生徒の親
(7)いじめられる生徒の親
(8)いじめられない生徒の親
(9)生徒指導能力の高い先生
(10)生徒指導能力の低い先生

という登場人物もいて、それも比較しながら分析しないと、解決策のポイントも優先順位もうまく見つからないのではないか、という内容のことを書いた。

 すると、大人の読者から「いじめられる生徒も悪いと言うのか!」という反論が来たのである。

 私は目が点になって(なってないけど)、自分の書いた文章を何回も読み返しました。けど、どこをどう読んでも「いじめられる生徒が悪い」などという主張は書いてない。そこで私は、「問題解決の一つの手法を並べただけなのに、それをこうまで曲解してクレームを付ける人たちがいるんだ」ということを学習したわけです。つまり、「いじめる子供は悪いやつ、いじめられる子供は可哀想」という「正義」をシュプレヒコールするだけで、そこで思考停止して、「ではどうすればいいのか?」という議論になると考えようともしない人たちがいるということを初めて知った…という記憶があります。

 それにしても、「問題を解決するために、いろんな分析をして手段を考えよう」という当たり前の議論ができない、というか、しようとしない人が、こんなにいるんですね。「説明しろ」と言いながら、説明してもハナから聞くつもりがないんだから、それはヤクザのインネンと同じですね。いや、タウン誌時代に暴力団にもエセ右翼にもエセ同和にも対峙してきた私に言わせれば、暴力団やエセ右翼やエセ同和の方がまだ理屈でインネンを付けてくるから、こっちも落とし所が見えるだけマシかもしれん(笑)。

 ま、ここでいじめ問題を語るつもりはありません。私は問題解決の手法の一つとして「問題に関わるプレーヤーを全部並べて検討する」という方法をとっている、というだけの話です。それと、世の中には「ちゃんと問題解決をしようとしない人が結構いる」ということと。

 そんなことを考えながら仕事をしている、初秋の夜長です。もう午前2時半ですけど。
2015年9月6日(日)

 あまりに水槽が美しいので(もうええっちゅうに)、調子に乗ってプーキーに行って魚と水草を増量して、さらに美しくなった水槽をナイトクラブバージョンにして(もうええっちゅうに)仕事をしていたら、あっという間に夜の11時を回ってしまった。そこで、ちょっと休憩してテレビを見たら、何かのニュースワイドみたいな番組で、関東大震災の時の予知がどうしたとか防災がどうしたみたいな特集をやっていた。再現VTRを見ながら、司会者やコメンテーターが盛んに「うんうん」とうなずいていました。

 関東大震災や阪神淡路大震災、東北大震災を経て、日本人の防災意識はものすごく高まってきているようで、あれ以来、厳しい厳しい耐震基準ができ、そこまでするのか、というほどの耐震工事が全国で進められ、そこまでするのか、と思うような防潮堤があちこちで造られ、防災マップがあちこちで作られ、避難訓練があちこちで繰り返され、ありとあらゆる予測ケースが頻繁に検討され、それが頻繁にメディアで報じられ、それでも「まだ足りない。もっとこうするべきだ、ああするべきだ」という主張が絶えることなく行われている。

 繰り返すが、日本人は「防災」について、万が一、億が一のケースまで想定しながらありとあらゆる対策をやろうとしていて、国民も「まだ足りない、あれもやれ、これもやれ」と言っているのである。

 ところが、「防衛」については、一転して「あれもやるな、これもやるな」の大合唱をしているとは、さらに、万が一どころか、千が一、百が一の事態の想定すら許されないとはこれ如何に。一体、どういう理屈の整合性をとればそうなるのか。

 日本の「防衛力」と「安全保障」の関係を一部だけ振り返ってみると、まず、日本の防衛力が無力だった戦後のどさくさの時代に、韓国には勝手に李承晩ラインを引かれて国土を奪われた。しかも、その勝手に引かれたエリアに入った日本人(ただの国内活動なのに)が韓国軍に銃撃されて殺害され、以後10数年間で4000人近くの日本人が拿捕されて過酷な目に遭わされ、40人以上が死亡した。

 同じく日本の防衛が無力だった戦後のどさくさに紛れてロシアには北方領土を奪われ、韓国にやられたのとは桁違いの日本人が拿捕され、死亡した。

 その後、アメリカの力で防衛力がついてからは、韓国やロシアは一旦おとなしくなった。

 ところが、今度は日本がいろんな縛りで防衛力を行使できないとわかると、北朝鮮が日本人の拉致犯罪に走り、ミサイルで日本を脅し始めた。さらに軍事力が肥大化した中国が尖閣諸島をはじめ、露骨に覇権主義を推し進め始めた…等々。

 つまり、日本の周りにいる中国、ロシア、北朝鮮、韓国は、歴史的に「日本の防衛力が機能しないと見ると、隙あらば日本を攻めようとする」という国だと言わざるを得ない。その中国、ロシア、北朝鮮、韓国が実際に今、「日本の防衛力が機能しないので隙あらば攻めよう」とあの手この手を使って動いているというのに、当の日本では「防衛力を機能させるな」という主張がますます大きくなっているとは、これイカにタコに?!

 しかも、自前のエネルギーを捨てて外国の化石燃料依存をさらに高めようとしているとは、素人目にではあるが、かつて日本を戦争に駆り立てる大きな要因になったと言われる「ABCD包囲網」がいつでも再来するんでないか? という危機感すら覚えたりするこの頃です。

 つまり、「防災」にはあれほど綿密に、過剰なほど対策を講じろと言うのに、同じように、というか防災以上に国の安全に関わる「防衛」には「対策を講じるな」と言う世論様のメンタリティが、私にはよくわからないという話である。

 デモなんかをしている人たちが「戦争反対!」とシュプレヒコールを挙げていますが、誰だって戦争はしたくないだろうし、私だって戦争は嫌いですよ。でも、露骨に行動に出る中国とロシアと北朝鮮と韓国に囲まれた日本は、「防衛力が衰えると危険になる」という歴史を繰り返してきているので、「とにかくこの現実においては、防衛力を強くして我々を守っていただきたい」と思っているのですが。

 ちなみに、「防衛力を強くするより防衛力を放棄した方が敵に攻められない」というロジックは、百歩譲って理想論としては、もしそれができるのならそれに越したことはないと思うのですが、現実論としては、私の頭ではどう考えてもつながらないもので。

 まあ、私はもうええ歳だからいいんだけど、子どもや孫の時代にはどっちが本当に危険なのか、デモをしている方にはイデオロギーという「答」ありきで思考停止せずに、ちゃんと考えて、それこそ私たちにもわかるように説明していただきたいと思います。法案を止めたいのなら、首相を罵倒するのでなく、シュプレヒコールで「答」だけを連呼するのでもなく、それこそみんなが納得するようなロジカルな「説明責任」を果たしてもらいたいと思っているのですが。

 いかんいかん、こんなネタを何日も続けたら和田が心配して卒倒するから、今日はこれぐらいにしとこう。イ・ボミのプレーオフ2ホール目のパーパットはすごかったなあ。こんな終わり方でどう?(笑)
2015年9月5日(土)

 四国新聞に載っていた小さい記事である。

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<地域活性化の政策募集>
 政府は4日、民間や中央省庁が持つ膨大な情報「ビッグデータ」を使った人口減少対策や地域活性化に関する政策コンテストを実施すると発表した。個人やグループから提案を募集し、12月13日に地方創生担当大臣賞などの優秀作を最終選考し、都内で表彰式を行う。募集するテーマは@人口減少や少子高齢化対策A観光振興やにぎわい再生B産業活性化など。地域の人口動態や観光客の動向と言ったビッグデータをインターネット上で閲覧できる「地域経済分析システム」を利用し、データに基づき独自の提案をしているかどうかなどを、学者らでつくる審査委員会が評価する。(以下略)

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 私はもうずーっと前から、たぶん「地域活性化」という言葉が行政から出てきてマスコミや識者の間に蔓延し始めてからずーっと同じことを言っているのであるが、地方は、一体何がどうなったら「活性化した」とするのか? 何がどうなったら「創生した」とするのか? そこを優先順位をつけて決めないと、ただ何かを「やること」だけが目的になって、10年経っても20年経っても何も起こらないまま沈んでいくのである。

 例えば、上記記事の中に出てきた項目を並べると、

●人口減少対策→人口が増えたら「地域活性化」が達成したとするのか? 「地方が創生した」とするのか?(「地域活性化」や「地方創生」という言葉を使った時点でもう胡散臭いけど、仕方がないのでとりあえず使いますが…)
●少子化対策→出生率が上がったら「地域活性化」「地方創生」が達成したとするのか?
●高齢化対策→高齢者が減ったら、あるいは高齢者福祉が充実したら「地域活性化」「地方創生」が達成したとするのか?
●観光振興策→観光客が増えたら「地域活性化」「地方創生」が達成したとするのか?
●にぎわい再生(創出)策→祭りやイベントが増えたら「地域活性化」「地方創生」が達成したとするのか?
●産業活性化策→働く場(雇用や所得)が増えたら「地域活性化」「地方創生」が達成したとするのか?

 とにかく、こういう項目を総合して「地域活性化」と呼ぶのなら、6つもあるのだから、これを地域(県とか市とか)ごとに、それぞれの地域の状況やビジョンに合わせて優先順位をつけないといけない。これを「どれも地域活性化につながる」などといって並列に並べると、役所はすぐに「やりやすいもの」をやり、政治家は必ず「票になるもの」に手をつけて、さっきのコピペで結局、ただ何かを「やること」だけが目的になって、10年経っても20年経っても何も起こらないまま沈んでいくからである。

 「いや、そんなことはない」と言う人がいたら、その人は申し訳ないが学習能力ゼロである。だって、「ふるさと創生」とやらで1億円を配っても、地域振興券なるものを配っても、どんな地域活性化予算をつけて「少子化対策」をやっても「高齢化対策」をやっても「観光振興策」をやっても「にぎわい創出策」をやっても「産業活性化策」をやっても、あれからどんどん成長してきた地方自治体はほとんどどこにもないんだから。

 ということは、「今までのやり方ではうまくいかない。目指すものか、あるいはやり方か、何かがおかしい」と思わないといけないのである。そして、うまく行かない原因を特定して、次は違う戦略を試みなければならない。

 ところが、今度は「地域活性化」を「地方創生」に言い換えただけで、また同じように地方自治体に予算をつけようとしている。で、また同じような人がそのお金の使い途を決めようとしているのだから、このたびの「地方創生予算」を使って成長路線に乗るような自治体は、まず出てこないと思うのである。

 「地域活性化の政策募集」をしても、たぶん結果はほとんど同じである。だって、審査員は学者だと言うし、そもそも、本気で成果を挙げようと思うなら「ビッグデータを使うことを前提とする」などという制約を付ける方が間違っているからである。どう考えても「フリーハンド」にしないと、有効な戦略なんか出てこないんだから。

 ちょっと「優先順位」を付けてみますか?

 例えば、「地域住民が経済的に豊かになる」というビジョンを掲げたとすると、たぶん優先順位は、

(1)産業活性化策
(2)以下なし

となると思います。地域にビジネスが興り、GDPが増え、雇用が増え、働く人の所得が増えると、人口減対策なんかやらなくても人口は流入してきて増えるし、地元で生まれ育った人も地元で就職できて流出も減る。企業がどんどん利益を上げれば、祭りやイベントもスポンサードが増えて大きくなっていくし、地域プロスポーツや文化活動にだって税金を入れなくても民間で勝手にお金が回って「にぎわい」なるものも拡大していくようになる。税収も増えて福祉に回るお金も確保できる…そういうサイクルが回り始めるからです。

 そう考えると、「人口減対策」や「少子化対策」や「高齢化対策」などは、単独で優先的に取り組むようなポジションにある事業だとは思えないのですが…

 ちなみに、観光振興策は「産業活性化策」の中の一部という位置づけですが、「地域住民が経済的に豊かになる」というビジョンが目的であれば、観光産業はサイズが小さすぎます。ラスベガスやハワイやドバイみたいな圧倒的な観光産業を興すのならまだしも、あるいはヨーロッパなどのように圧倒的な周辺人口があるのならまだしも、日本の地方都市レベルで「既存の観光資源を生かして…」などというレベルでは、地域経済の成長(活性化?)まで期待するのは無理です。

 では、産業活性化策はどうすればいいのか? 私には具体的に急には思いつきませんが、たぶん、「ビル・ゲイツレベルのビジネスマンが、税金みたいな他人の金ではなくて自分の金を使って香川県の経済を成長させるとしたら、どういう戦略を立てるか?」と考えたら、戦略の方向性がイメージできると思います。推測するに、「地場産業のテコ入れ」とか「農産物のブランド化」とか「地域や特産品のPR」なんかは絶対にやらないと思います(笑)。「イベント」や「ゆるキャラ」なんかは、地域経済活性化策でも何でもなくて、ただの「レクリエーション」ですよ。

 次に、「我々の地域は経済に豊かさを求めない。心の豊かさを満足させる地域を目指す」というビジョンも、選択肢としてはあるでしょう。「心の豊かさ」というのは情緒の問題なので、いろんな形があってその具体的なイメージは一つに決められないと思いますが、その場合の戦略の優先順位は、

(1)自然の創出、文化の創出、住環境の創出…等々
(2)以下なし

という感じになると思います。ただし、税金を投入しながら継続していくような自然や文化や住環境の創出はできませんよ。だって、お金がないんだもの。まあ、今みたいに「借金で行けるところまで行って、どこかでにっちもさっちもいかなくなる」という選択肢もあるでしょうが…
 
 以上、両極端のビジョンを挙げてみましたが、どちらに向かうにしろ、あるいはそれらの中間的なビジョンを掲げるにしろ、とにかくビジョンを掲げたら、有効な順に戦略に優先順位をつけないとたぶんだめです。縦割り行政でそれぞれの担当部署のやりたいこと(あるいは予算消化のためのアリバイ)を並列に並べたら、間違いなく全体としての成果はほとんど上がらず、全体がゆっくりと沈み続けていくと思います。

 あと、イベントやゆるキャラやB級グルメやいろんな地域PRみたいなのは、やらないよりはやった方がいいのだろうけど、「将来の地域ビジョン」をちゃんと作ってみると、どんなビジョンを作ってもたいてい最優先項目にはならないと思います。そういうのはもう、「地域活性化策」ではなくて「レクリエーション」と呼んだ方がいいと思うのですが。

 事実、数カ月前にデータを掲載したけど、最近8年間の人口減少率ワースト5は、

・土庄町………( 87.4%)
・琴平町………( 88.0%)
・東かがわ市…( 88.6%)
・小豆島町……( 88.9%)
・直島町………( 89.5%)

 香川の大きなイベントである「四国金比羅大歌舞伎」と「瀬戸内国際芸術祭」をやっている町がズラリと並んでいますし(笑)。

 まあ、「貧しくてもレクリエーションを楽しむ地域」を目指すのならいいんですけど…。とにかく、「地域創生をしたいから予算をもっとくれ」という要望は因果関係が根本的にずれている。「予算が付かないから地域が活性化しない、予算が付けば地域が活性化する」というロジックはもうとっくに破綻している、ということを、あのちっちゃい記事から改めて思いました。ナイトクラブ仕様の水槽のせいで、午前3時になったのにまだ起きている(笑)。
2015年9月4日(金)

 水槽の上に設置している蛍光灯2本のうちの1本が点滅し始めたので、新しいのを1本買いに行ったのである。そしたら、しばらく見ないうちに商品棚に「水槽用LEDライト」がたくさん並んでいたので、思い切ってそれに買い換えた。

 本日午後7時、我が家の水槽の照明は「フラットLEDツイン」号になりました。スイッチが2つ付いておりまして、「白・青・赤」が全部点灯するスイッチを入れると、おおっ! めちゃめちゃ明るい! 魚も水草も驚くべき鮮やかさになったでないか! さらに、もう一個のスイッチの方に切り替えると、おおーっ! 全体が薄暗くピンクと紫に照らされて、ナイトクラブの如く妖しいではないか!(行ったことないけど)

 というわけで、昨日は朝の8時過ぎから夕方5時頃まで某病院の休憩室で原稿を書きっぱなしという珍しい体験をしたせいか、昨日の晩から体調をちょっと崩していたのだが、今晩は妖艶な水槽のおかげでテンションがぐっと上がって、夜中の1時になってもまだ睡魔が襲ってこない。気分というのは結構単純なものなんですね(笑)。

 ちなみに、こないだから仕事の合間を縫っては中国と韓国とロシアの近代史の本を10数冊ほど読み返しています。このところずっと、第二次世界大戦で日本とほとんど戦ってもいない中国共産党とロシアと日本軍側だったはずの韓国が「日本の帝国主義を打ち破った」とか言っているというニュースがメディアを賑わしているのに、表面的にしろ歴史も知らずに批判するわけにはいかないので、一通り読んで自分なりに理解しているつもりではあるけど、もう一回読み返しているわけです。

 別に誰かと議論するつもりはないけど、あふれる左翼系報道やヘイトスピーチみたいなデモのシュプレヒコールなんかの一つ一つに対して、感情でなくて、なるべくファクトベースでその是非を判断したいというだけです。

 一応今のところ、どう考えても歴史を捏造しようとしているのは中国とロシアと韓国。安倍首相を罵るデモの主張は、どう考えても「では、国を守るためにどうすればいいのか?」という問いに対して「祈る」という答しか出てこない。そりゃ宗教です(笑)。

 それにしても、生まれてこの方、本なんかロクに読んでこなかったのですが、歴史は本や資料を読まないとだめですね。新聞とテレビとネットで自分の「歴史認識」を作ったら、それこそロクな答が出せないと痛感しています。周辺の厚顔無恥な国々のことや日本の安全保障のことについて、おかげで何とか自分なりにロジカルに意見をまとめられてはいるのですが、書いたりしゃべったりするにはまだまだ未熟なので、もっと勉強します。
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