2015年10月の日記 |
2015年10月31日(土) 暴風のような仕事に見舞われているというのに、先週は学生から「日記が止まっていますよ」と言われ、昨日はとうとうチンペイから催促のメールまで来てしまった。
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田尾先生、 お世話になっております。いつも日記を楽しみにしていますが、今年日記の更新が少ないのではないかと思い過去の更新数を調べてみました。 <1月から10月までの更新数> 2013年:117回 月平均11.7回 2014年:91回 月平均9.1回 2015年:69回 月平均6.9回 これで心に火がついていただければ幸いです(笑)。
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これを見た私は、心に火がつく前に、チンペイが数字を書けるようになった上に平均まで出せるようになったのを見て、もう日記を書く手が止まるほど感激したのである。というわけで、せっかく書こうと思っていたのに手が止まってしまったので、一本ネタが書けなくなったぞ(笑)。
今日は早朝から研究室とインタレスト編集室に籠もって、第一特集の原稿制作に没頭。9時半頃に編集長の三宅が来て、12時半までぶっ通しで作業して、1時半から3時過ぎまで大学の業務をやって、それから仕事を家に持って帰って、今、間もなく午前2時になる。ほんま、寝る間もないんじゃ。一応寝よるけど。
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2015年10月25日(日)
こないだ、あまりにも社会の常識と思考能力に欠けた大の大人に辟易するという出来事があって、それを書こうか書くまいかと葛藤していた期間が約5日間。というわけで、日記が12日も空いてしまったけど、そのうちの5日は「書こう」という意志があったことだけ言い訳しておこう。
ちなみに、その事件のことをU原がめちゃめちゃ知りたがっていたが、書かない(笑)。私はいかにネットとは言え感情で書き殴るようなことはするつもりがないし、かといってロジカルに書こうとすると書かなくてもいいファクトまで入れないと説明ができないし、もしうまく整理できたとしても内容がひどすぎて何の教訓にもならないからである。何で教訓にならないかというと、たぶん普通に一般社会で仕事をしていたら、ああいう情けない大人になることはないだろうからである(ちょっと感情入った?・笑)。まあ、いつまで経っても勉強の材料は尽きないということで、私は大人の態度を取っておくことにしました。
今日は久しぶりに家内と一福に行ったら、厨房のレイアウトが変わってて、いつもカウンターのところでうどんを茹でながら注文を取っていた大将が、茹で釜ごと2mほど後ろに下がってうどんを茹でていました。
田尾「レイアウト変えたん」 大将「はい。ちょっと茹でるところを後ろに下げて、天ぷら揚げるところをそっちに持って行って」 田尾「大将が真ん前で接客しよったら客が減ったん?」 大将「何でですか。ちょっと遠くなって残念でしょ?」 田尾「いや、奥さんが近くなったから全然かまん」
などという会話を天ぷら担当に若い兄ちゃんが、いい笑顔でニコニコしながら聞いていました(笑)。それからテーブルについてうどんを食べていたら、どこかのお子さんがわがままを言ってわめき散らし始めました。私は子供の年齢の見当がつかないので家内に聞いたら、「2歳か3歳ぐらいやろ」と返ってきました。そうかー。子供って、2、3歳でもう歪み始めるんか…。
私は育児のこともよくわからないし、「何をどうしてたら歪むのか? 何をどうしたら歪みが矯正されるのか?」とかいういろんな状況との因果関係もよくわからないが、ほんと、勉強の種は尽きません。皆さんいろいろ大変でしょうが、大人も子供も、真っ当な日本人が増えていくことを希望しています。じゃ、ほとんど徹夜状態になってしまったので今日はこれくらいで。
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2015年10月13日(火)
「さぬきうどん未来遺産プロジェクト」の「開業ヒストリー」取材で、先週は「山越うどん」の大将と奥さんに時間を取ってもらって1時間半ぐらい、先代の頃の記憶から現在までの話をものすごくたくさん詳しく聞いてきました。大将と奥さんの結婚秘話まで話してくれました(笑)。
続いて昨日、飯山の「なかむら」に行って、家に上げてもらって、大将に2時間以上も昔話を聞いてきました。途中から仕事を終えた奥さんも来てくれて、とても書けないような話も盛りだくさん聞かせていただきました(笑)。
そういうわけで、どんどん仕事が増えています。これからいろんな他の仕事の合間を縫ってテープ起こしして、それを開業ヒストリーにまとめて、内容確認のやり取りをしてからサイトにアップします。すでに完了している松下製麺所や元祖宮武うどんの開業ヒストリーがまだアップされてないので、ちょっと先になるかもしれませんけど。
それにしても、「ゲリラうどん通ごっこ」以来、ずーっと讃岐うどんの「現在情報」を追いかけてきて、ここに来て「さぬきうどん未来遺産プロジェクト」の「昭和の証言」や「開業ヒストリー」や「新聞記事発掘」等の「過去情報」を集めにかかってみると、何だか讃岐うどん感が変わってきたような気がします。やっぱり、文献研究で理屈をこね回すより、現場主義の情報収集でファクトベースの状況認識を積み上げていく方が、断然説得力がありますね。
「人の話は、例え本人が語っても、思い違いや脚色が入っているから“ファクト”ではない」と言う人もいますが、「さぬきうどん未来遺産プロジェクト」は歴史の「答」を出そうとしているのではなく、「証言のデータベース」を未来に遺そうという目的だから、そんな「ファクトの定義」とは関係ない、新しい「過去の編纂」のスタイルなんです。それも、自説に都合のいい証言だけを拾ってくるという邪(よこしま)な取材ではなく、どんな証言も全部拾ってきて残すという、とても誠実な態度です(笑)。
私は社会に出てから30年以上、ずっと現場主義でやって来ているから、そういう方が性に合っている。自分をよく見せるために都合のいい話だけを並べたり、自分の主張に都合のいい素材だけを集めて理論構築したりするというのは、性に合わない。「ファクトベースの仮説をぶつけあってよりよい答を出す」という議論は性に合うけど、「相手をやり込めることが目的」の議論は性に合わない。
でも今、私の周りには両者が半分ずつくらいいるの(笑)。よって、無用のストレスを抱え込まないために、議論の半分はやめることにしようと思っている昨今です。さ、建設的な仕事だけしよ(笑)。
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2015年10月12日(月)
久々に「創刊以来最大の忙しさ」を更新中で、もう大変な毎日なのに、U原がどうしてもと言うから(笑)、仕方なく仕事を中断して書いておくことにする。
最近、四国新聞に2回も私の名前が載っているのを見つけました。「見つけた」というのは、四国新聞の方が私に取材に来て記事にしたのではなく、第三者が書いたコラムと随筆に私の名前が出ていたから、私は載るまで全然知らなかったわけです。でもまあ、私は後ろめたいことは何もないから別に何を書かれても全然オッケーなのですが、U原から「何か事実と違うことを書かれていますよ。あのままじゃ、歴史が捏造されてしまいますよ」という指摘があったので、事実を知る本人の私からちょっとだけ訂正を入れておこうというわけです。
1つ目は、ちょっと前に四国新聞に掲載された「メッセージ 香川のリーダーたち」という連載記事の中。この企画は最近始まった「自伝・回顧録」風の連載企画で、1人目に取り上げられていたのは現職の浜田知事。その2人目がJR四国相談役の梅原さんで、それぞれ10回ぐらいに分けて、ご本人の生い立ちから経歴、様々なご活躍の様子や裏話などが回顧録の物語風に綴られているというものである。その梅原さんの回顧録の8回目に、「全国ブーム生んだ官民タッグ」という大見出しが付いて、讃岐うどんブームのことが書かれていました。
冒頭に「2003年に梅原さんが香川県観光協会会長に就任し、JTB元高松支店長の松岡さんと組んで“梅原ー松岡体制”の観光協会がスタートした」という内容の一節があり、本文は以下のように続いていた。
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体制は整った。さて、何をやるか。松岡さんと2人、杯を傾けながら議論を重ね、「やっぱり、うどんだろう」となった。 当時は四国学院大学教授の田尾和俊さんの単行本「恐るべきさぬきうどん」がきっかけで、製麺所などのマニアックなうどん店に観光客が訪れるようになっていた。しかし、地元では「うどんは観光ではない」との見方が大半。讃岐うどんの知名度もまだ全国区ではなかった。 私たちは讃岐うどんの「東京進出」を企てた。全国区になるには東京からの情報発信が欠かせない。 JR四国グループのうどん店「めりけんや」を東京に出店する計画を立て、JR東日本の大塚陸毅社長に持ちかけた。 ……(中略)…… 恵比寿駅のめりけんやはオープン当初から大繁盛。新橋、上野、秋葉原と立て続けに出店し、店舗数はピークには10店を超えた。 ちょうど同じころ、「はなまるうどん」も東京に進出した。東京で讃岐うどんブームが巻き起こった。マスコミでも取り上げられ、讃岐うどんの名は全国に広まった。 その後、県の「うどん県プロジェクト」が大成功。香川の知名度は一気に高まった。「うどん県」を打ち出した浜田知事には頭が下がる。ただ、うどんが有名になっていたからこそ、「うどん県」がある。官と民とのタッグプレー。「うどん県」はその典型だったような気がする。
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なるほど、讃岐うどんブームはそうだったのか(笑)。
私が年号を付けて解説すると、要するに、2002年に「めりけんや」が東京に出店するまでは、製麺所に観光客が訪れるようにはなっていたが、讃岐うどんの知名度はまだ全国区ではなかったらしい。その後、2002年の「めりけんや」と「はなまる」の東京出店から讃岐うどんが全国区になり、2011年に始まった「うどん県」プロジェクトで香川の知名度が一気に高まった。だから、今日の讃岐うどんブームは官民のタッグプレーの成果だということだそうである。
しかし、以前、四国新聞のコラムでもこれと全く同じような経緯が書かれていた時にも指摘したが、讃岐うどん巡りブームが頂点に達してあちこちの人気店に1時間待ち、2時間待ちの行列ができるほどのピークを迎えたのは、1990年代終盤から2000年頃なのである。そのピークを迎えた主要因は、1995年頃から2000年あたりにかけて、全国ネットの雑誌やテレビが讃岐うどん巡りを全国にバンバン紹介したからであり、その因果関係は当時を知る人なら誰でも知っていることである。従って当然、その頃は既に讃岐うどんの名は全国区にのし上がっていたのである。
その後、2004年頃にはもう、したり顔の評論家の間では「讃岐うどんブームは陰りを見せている」とまで言われ始めていた。そこへ、2006年に映画『UDONN』が公開されて讃岐うどん巡りブームは再爆発、さらに2009年に「瀬戸大橋の通行料1000円」が実施されて、ブームは再々爆発したのである。
それから2011年に瀬戸大橋の通行料が元に戻って、うどん巡り客の数も元に戻って、同じく2011年に「うどん県」プロジェクトが始まっても特に爆発はしてない・・・というのが、当事者の私が認識している、たぶんほぼ正しい経緯だと思う。従って、
(1)「めりけんやとはなまるの東京出店で讃岐うどんが全国区になった」という認識は、たぶん違う。2000年頃までに讃岐うどんブームがピークを迎え、それを受けて2002年から「讃岐うどん店の全国展開ブーム」が起こったということです。ちなみに、都内10店の「めりけんや」より、都内を中心に全国に数百店展開した「はなまる」の方が、はるかに「讃岐うどん店の全国展開ブーム」を牽引していたと思います。
(2)2011年に始まった「うどん県」プロジェクトは、1990年代前半にブームが始まって20年も経ってから(ブームがピークを迎えてからでも10年以上も経ってから)始まったので、今日の讃岐うどんブームは「官民のタッグ」ではなく(それまで「官」はほとんど何もしてなかったのだから)、「民」が作ったブームに「官」が後乗りしただけだと思います。もちろん、大きな話題を呼んだことは間違いありませんが。
という訂正を、U原が「入れとかないと間違った歴史が定着してしまいますよ!」と言うので(笑)、しつこいやつだと思われそうなのであまり気が進まないけど、再度入れておきます。あと、本文によると「2003年に梅原ー松岡体制が発足して、そこで杯を傾けながらめりけんやの東京出店を企てた」とありますが、めりけんやが恵比寿に出店したのは2002年8月だったと思うのですが(笑)。
けど、以前『うどラヂ』でごんが「うどん県プロジェクトがさぬきうどんブームを作ったみたいな話を次々に繰り出してくる行政や四国新聞や関係団体のオピニオンリーダーの方たちは、わざと自分たちの都合のいいように歴史を曲げようとしているのではなく、本当にそうだと信じ込んでいるのではないか?」という指摘をしていたけど、こういうのがあまり続くと、私も「そうかも知れない」と思ったりもしています。
以前にも書いたけど、1990年代後半のブーム真っ只中に、某市長が讃岐うどんがこんなにブームになっていることを全く知らなかったという事件に出くわしたし、同じく1990年代中盤〜後半にかけて、全国ネットの雑誌やテレビや岡山の山陽放送の『VOICE21』が讃岐うどん巡りをどんどん紹介していた頃、地元の四国新聞も西日本放送もほとんどブームに触れていなかったし、うどんや観光の関係団体もほとんど動きを見せていなかった。だから、まさかとは思うが、彼らは本当に知らないのかもしれない。そう考えると、本文にある「(2002年頃は)地元では『うどんは観光ではない』との見方が大半」という記述は、「地元では」ではなくて「地元の行政やマスコミ、団体の間では」ということではないかと思うのですが(笑)。まあ、知らなかったのならちゃんと調べて書いてください、という話でもあるけど。
まあいいか。とりあえず、そのあたりの経緯も含めて「讃岐うどん未来遺産プロジェクト」https://www.sanukiudon-mirai.jp/で「讃岐うどんの過去」を編纂しようとしているのですが(プロデュース側の仕事が立て込んでいるらしくて更新が追いついていませんが、有名店の開業ヒストリーも4〜5本完了していますので、アップをお楽しみに)、行政や地元新聞の「権威」にはとても及ばないため、為すがままです(笑)。権威ある人たちの中に、ファクトベースできちんと物事を押さえていくようなちゃんとしたジャーナリストが出てきてくれるのを待つばかりです。
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続きましてもう一つ、こっちは微笑ましい間違い(笑)。
昨日の四国新聞の「読者文芸」のコーナーに、高松市の66歳の男性からの「一坪のうどん店から」というタイトルの随筆が選ばれて載っていました。読んでみると、お話は筆者の知り合いのうどん店についての物語になっていたのですが、その文章の導入部分に私の子供のことが書かれていた! こんな具合です。
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二十六年前の夏の夕、散歩中の私はあるコンビニの前で塾帰りの教え子に会った。「先生、父が最近うどんのお店通いに凝って一日二十軒も回っているんですよ」「何、あの競馬の大好きな」「そう、南の方の郊外の目立たない納屋みたいなうどん屋さんのお店が凄かったらしく、それ以後県内中を回って、タウン誌に載せるとか言って」 彼の父、かの麺通団団長こと田尾和俊先生が著してくれた当時の『ゲリラうどん通ごっこ』には流ちょうな方言で地元の者でも知らないような店も丁寧に紹介されている。……(以下略)
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私の知らない息子のエピソードなんかを覚えて下さっていて、本当にありがとうございます。家族共々、喜んでおります。ただ、ちょっと時系列が…
26年前ということは1989年だから、私が「ゲリラうどん通ごっこ」の連載を始めた年で、「父が最近、タウン誌に載せると言ってうどん店通いをしている」というのはその通りでした。ただ、うちの長男が生まれたのは1985年で、1989年にはまだ4歳なんですけど(笑)。
この記事を家内に見せたら、大笑いしながら長男に電話をして「○○(長男)、4歳の時に一人でコンビニの前におって、『父が最近うどん屋通いに凝っていて、南の方の郊外の目立たない納屋みたいなうどん屋さんのお店が凄かったらしく、それ以後県内中を回って、タウン誌に載せるとか言って』とか言いよったんか。知らんかったわ−、すごいやつやったんやなー(笑)」とか話していました(笑)。
長男曰く、この筆者の方は小学校の時の先生だったらしいのですが、4歳の時には当然出会っているはずもなく、だから「先生」などと話しかけるわけもない(まだ先生じゃなかったんだから)。当然、私が競馬好きであることなど知っているわけないから、その「先生」に「競馬の大好きな」と言われて「そう」などと答えるわけがない(笑)。ついでに言えば、いくら何でも1日にうどん屋20軒は食えん(笑)。
ちなみに、U原から「これ、読んだ人は『あぁ、田尾さんてうどんの本で稼いだ金、全部競馬に入れ込んどるんやな』って思うでしょうね」というメッセージが来たが、あれを読んでそんなことを考えるのが一般人なのか(笑)。私は『恐るべきさぬきうどん』は会社の社長時代に出したので、全部会社の売上になって個人には一銭の原稿料も印税も入ってないし、競馬は大学時代にスポニチの特報部(競馬、競輪、競艇部)に3年間アルバイトで入っていた時からのファンだけど、「つぎ込む」ほどのお金を使ったことは一度もない。たぶん、H谷川君の飲み代の10分の1ぐらいで遊んでいるぐらいで、さらに「回収率」を換算すると、自慢するわけだがたぶんプラスだ(笑)。
というわけで(笑)連発ですが、筆者の方、たぶん時系列が少し混乱されているみたいです(笑)。以上。でも、本人が何と言おうが、「権威」ある新聞に載った方が「事実」として定着していくんだろうなあ。
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2015年10月6日(火)
月曜日の夜、9時半頃のことである。重い原稿が一つ、やっとのことで仕上がったので、いつものようにごんに送ろうとして、まずOutlookを開いてごん宛ての送信メールのページを出して、原稿ファイルを添付し、「10月10日に××××が割り込みます」というメッセージを付けて送信ボタンをクリックしたら、下の方に出てくる送信のバーがクッと動いたところで止まったのである。
あれ? メールが送れん。どうした?
私は昔、ごんやS原に教わったトラブル対処の初歩作業を思い出し、まず、Outlookを終了してオールクリアにし、再びOutlookを開いて原稿ファイルを添付し、メッセージはさっき書いたやつをコピペしたら何か悪いものを連れてきたらいかんと思って「10月10日に××××が割り込みます。手配、よろしくお願いします」とちょっと文を付け足して書いて送信ボタンをクリックした。すると、また送信のバーがクッと動いたところで止まったのである。
何だ? 何かが壊れたのか?
私は冷静になって、ありとあらゆる可能性を考えて、ハッと気がついた。切り替えてないやん。
私はMacBook Airを使っているのだが、主に大学の研究室と自宅の仕事部屋で使っているので、両方でメール送信ができるようにしている(ま、してもらったのであるが)。で、大学に行くと、パソコンを開けてまず「システム環境設定」で「ネットワーク」を「大学」に切り替え、家に帰るとまたネットワークを「自宅」に切り替えているのだが、見るとやっぱり、ネットワークが「大学」になったままだった。ま、初歩的な切り替え忘れであった。
そこで、私は万全を期した。以前「ミスったやつはたまにその原因を引っ張ったままになることがある」と聞いていたので、まず一旦パソコンを終了して再起動し、続いてネットワークを「自宅」に切り替え、それから再度Outlookを開いて原稿ファイルを添付、メッセージも「次の10月10日に××××が割り込みます」と微妙に変えて送信ボタンをクリックしたら、送信バーの青いのがグーッと伸びてピロン! 言うて送信できた。やれやれ。私は、小さなこととは言え自力でトラブルを解消できたことの達成感に浸りながら、夜中の1時頃まで仕事をして寝たのである。
ところが、この一連の行動が思わぬ騒動を巻き起こしていた。
火曜日の今日、朝から大学で全力の授業を2本終え、夕方の6時半、『うどラヂ』の収録でFM香川に行ったら、ごんがH谷川君とディレクターのK米君を前に、深刻な顔で何かを語っていた。聞いてみると…
ごん いや、今日ね、メール見たら団長から同じ原稿が3回も続けて送られて来てるんですよ。それも、9時33分、9時35分、9時37分いうて立て続けに。 田尾 ちょっと待て。俺はな、かくかくしかじかで2回メールが送れんかって、切り替えてやっと送れたのに、3回とも送れとったんか。 ごん あれたぶんね、最初のネットワークが「大学」のまま送った2本が、月曜の晩はこっちに届いてなかったけど、団長が今日大学に行って向こうで切り替えた時に自動的に送信されたんじゃないですか? それで、私が今日見たら3本が立て続けに入っていた、ということだと思います。 田尾 そういうことか。ま、とりあえず届いたからオッケーや。 ごん そんなことはどうでもいいんです。それより、今日、その3本のメールを見た時の私の恐怖ですよ。な? H谷川君、さっき言うたやろ? H谷 いや、それは恐ろしいですよね。
そこまで聞いても、私には何が「恐ろしい」のかさっぱりわからない。
ごん まずね、団長から同じ原稿が3本来てたのは、まあ団長にはよくある何かの操作ミスかな、と思ったわけですよ。ところが、よく見たらメッセージの文面が3本ともちょっとずつ違う! それに気付いた瞬間、H谷川君、俺、全身が震え上がったよ。団長、とうとうキた! 思って。 田尾 何が来たんや。 ごん 普通、操作ミスなら文面も全く同じメールが3本来ますやん。けど、3本とも文面が違うということは、団長、確実に3回送ろうとしたということでしょ? すると、同じ原稿を添付して2分ごとに3回も送ってくるということは、明らかにこれ、朝ご飯を食べた2分後に「朝ご飯はまだかいの」状態になっとるということじゃないですか! H谷 誰が見てもそう思います。 ごん 俺な、あの文面が違うのを見た瞬間、全身が「ブルブルガタガタジョー!」状態になったわ。 田尾 「ジョー」はションベン漏らす音な。 ごん そんな解説はええです。それからもう、田尾家の様子が頭に浮かんできて…まず、奥さんは錯乱状態やわな。「昨日まで普通やったのに、何で急にこんなことに!」とかなって。その横で団長は延々とそこいら中に同じメールを送り続けよる。たぶん勝谷さんとこにも文面の違う添付メールが50本ぐらい行っとる。奥さんが「何しよん!」言うたら、団長が奥さんを見て「あんた誰かいな」とか言いよる… H谷 最近団長、番組で「このお便り、一回読んだかの?」とか言う時がありましたからね。 ごん そやろそやろ! “兆し”が無きにしも非ずやったし、団長、この歳になってまだ原稿とかで徹夜したりしよるから、余計にあのメール3連発見た時に「とうとうキた!」思たんや。ほんま、今日一日仕事が手につかんかったがな。それでさっき、スタジオに団長が来た言うから、一瞬、どう対処したらええんか焦ったわ。 田尾 君ら、楽しんどるのー。 ごん 誰が楽しんでるんですか!
というわけであった。なるほどなあ、そんなことがあったのか。すまんすまん。けど、考えてみればそういう事態はいつ誰に起こるかわからんのだから、万が一そうなった時にどう冷静に対処するかのシミュレーションができたと思えば、ごんにとっては貴重な一日だったという見方もできる。言わば「防災訓練」だということで。無理やりの見方だが(笑)。
えー、近年、確かに頭の回転やキレが鈍ってきているという自覚がありながらも、現在、重い原稿を4本と、やや重い原稿3本と、小さい原稿チェックを9本と、インタレストの締切と、授業を週に8本抱えています。2週間前に迷惑なねっくと松村と3人で今年2回目のゴルフに行った時の腕の日焼けの皮が今日むけ始たので、新陳代謝はまだしよるようですが(笑)。
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